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私の中にある”触れる”ということ。
昨日、Hearthulness Touch CareをやっているMarieさんとセッションの機会があった。
MarieさんはSelf Love Kids®︎の認定講師としても活動されていて、そこで知った存在。
https://www.instagram.com/marie.taniguchi__/
去年の12月のSelf Love Kids主催イベント"tone"で初めてお会いした。
"tone"ではサウンドバスやアート、タッチケアを通して親子で「ありのままでつながる場所」を感じる時間・空間がテーマだった。
この日は認定講師としてではなく、私も1人の母として5歳の長女と参加した。
あの日から私の中にある"触れる"と言うことについてMarieさんと一緒に考えてもらった。
大切だとはわかっていても。
"触れる" "触れられる”ということが大切なのはわかっている。
助産師として働いていて不安でいっぱいな産婦さんに触れた時、
早産して母子分離を経験した私が初めて息子に触れた時、
自分が日々の子育ての中で限界を感じて誰かに触れられた時、
そこで得られる安心感や癒しの効果はなんとなく頭でわかっているはずなのに
どこか娘との間で"触れる"と言うことにぎこちなさを感じたこと。
私との触れ合いを求める娘に対して時折やってくる
(今触って欲しくない、今は触らないで)の感覚。
これがあることがちょっぴり恐かった。
ー娘の「ママに触れたい」に答えられない私。
振り返ってみると、ベビーマッサージとかわらべ歌とかやってこなかった。
なんなら「ベビーマッサージなんてなくても触れたいなら触れればいい」とさえ思ってた。
(賛否両論を生みそうな発言ですが)
こんなぼんやりとした感覚が頭の中にふわふわ浮かび上がって
私の中に"触れる"と言うことに対して何かあるのか?とさえ思った。
(私は触れ方を知らないのか?)
(触れられ方を知らないのか?)
でも視点を変えてみれば、娘がまだまだ赤ちゃんの頃は
例えばyoutubeで調べてベビーマッサージでなくても
自然な娘との触れ合いに満足していたのかもしれないとも思えた。
心から湧き出る触れ合いだったんだとセッションの中で
自分なりに思考と言葉を整理して気づけたのは嬉しかった。
娘とのグラデーションがかったバウンダリー
"tone"のときはどうだった?どんな気持ちになるかとか恐さはなかった?
Marieさんの問いに振り返ってみた。
「恐さはなかった。でも触れていいかの許可をとる感覚が新鮮だった。」
触れてもいいか?触れてもいい場所か?
その感覚は1人の人間としてあって良いもの。
母として"子どもの「ママに触れたい」"に必ずしも応えることがマストではない。
それは自分の子にとっても。
それを知った時、私のすごくグラデーションがかった娘とのバウンダリーに気づいた。
まだまだ私の中にいる娘のように見ている自分がいる。
いつだって「私は大丈夫」を見せてくれる娘に
傷つかないように、困らないように、悲しまないように
守ってあげたい自分がいる。
だって私の大切な子だから。
今こうして文章にしてみてもまとまりがない。
だけど、私の中に心から湧き出るようにまっすぐに触れたいと感じた時間だった。
私にとって"触れる"ことは
健全なバウンダリーを感じて
あなたのままで大丈夫と
あなたのままでありがとうと
お互いに知れる一つの手段かもしれない。
セッション後の夕方、幼稚園から帰ってきた長女。
外遊びの後は手の甲とほっぺたが真っ赤でカサカサに乾燥している。
いつもより丁寧に丁寧に。
カサカサも肌の柔らかさもあたたかさも
全部感じながらクリームを塗った。
小さな手がただただ愛おしかった。