純文学界に到達したライトノベルの技法―小説『みどりいせき』感想

小説『みどりいせき』を電子版で読みました。著者は大田ステファニー歓人さんで、本作は第47回すばる文学賞と第37回三島由紀夫賞を受賞しました。VRChatで私のフレンドのアシュトンさんがお薦めされており、感想会も開かれるかもしれないとのことでしたので読んだ次第です。

総評としては、話の筋書きは単純である代わりに、主人公の心情や感じ方を読者に追体験させ、しかし理解した気になることは拒む文体になっていると思います。薬物の売人という題材からしても、主人公の目線から見えるものしか書かないことを徹底するのは体制や利権の不条理さを描くために効果的ですし、薬物の摂取体験を描くためには必然でもあります。

主人公が薬物に気づいていたことが途中まで伏せられていることをはじめ、ちゃらんぽらんな独白と冷めた台詞が入り混じる書き方は、読者が主人公の目線を理解したと思い込むことへの戒めになっていると思います。説明なく売人用語が出てくることも、読者の知らない、それだけでなく安易な理解を拒む世界が世の中にあることを示しています。

先日読んだ『フルトラッキング・プリンセサイザ』にも同じ技法が使われていましたが、造語や専門用語の説明をせず読者に不全感を与えることは、作品世界に奥行きを演出するためにSFなどで古くから行われていることです。私自身は直接的には、SF畑から流入した作家(秋山瑞人のこと)によるゼロ年代ライトノベルでそれに触れました。そして時代が下るにつれ、SFの代わりにコミュニティや個人の間の断絶を描くためにもジャーゴンは使われてきました(非言語情報で補完できる映像はまた別で、例えば『シン・ゴジラ』の台詞回しは熱意や有能さを伝える効果を果たしています)。すばる文学賞には物珍しい界隈のルポルタージュのような傾向がみられるので、大麻流通に関わる未成年者という設定が注目され、そうしたものを描く手法としてライトノベルで先行した技術がようやく受け入れられ始めたのかもしれません。

言語は共感や連帯を可能にしますが、あえてそれをしないときには断絶の象徴にもなります。その断絶を超えることを促すかどうかは作品次第で、『みどりいせき』は最後の一線ではっきりと拒んでいるように思えます。また、大きな筋書きに基づいた計画的な行動よりも刹那的に見える行動のその都度の感じ方を重視して描写するという点も、『フルトラッキング・プリンセサイザ』と共通しています。時代精神のようなものがここにはあるのでしょう。

『みどりいせき』には全体を通して、社会性を獲得する前の子供時代のような、身体性や世界との一体感への懐旧のようなものが流れています。その手段として薬物があるのですが、同時に一手段でしかないことは、最終章が春との野球の再現を通した和解で終わることから分かります。結局、いせき=前近代的な平和を象徴するのはそれだった。男女の友情がオチになるのは一見陳腐ですが、それを陳腐とせず、個人の身の回りの平和が当人にとっていかに重いものかを描くのもこの作品の意図でしょう。それに、少なくとも描写されている範囲では、主人公は春をあまり異性として意識してはいません。ただ「異質さ」を感じてはいるようです。

ちなみに、「みどりいせき」を「みどりい、咳」とする解釈があることを聞き及んでいるのですが、そう解釈することによる効用を私は感じませんでした。咳から身体性を想起することはできますがやや無理やりで、「緑/翠遺跡」と解釈する方が私の好みです。

主人公が一家や警察に捕まってひどい目に遭い、家庭が崩壊するという展開にならなかったのはご都合主義な気もしますが、そうならない可能性もある、つまり薬物を扱うと抗争や逮捕のリスクがあるという発想は自明ではないと主張する意図があるのかもしれません。

この作品の大麻のプロパガンダとしての側面には私はあまり関心を持っていません。私には私の、刑法174条(公然わいせつ)・175条(わいせつ物頒布)、児童ポルノ法、及び青環法と青健条例という関心事があり、被抑圧者同士の連帯というのを手放しに歓迎できる時代も過ぎたと思っています。ただし、私が関心を持っている性表現規制の文脈からしても麻薬規制は他人事ではなく、そもそもの有害性の認定が妥当かという問題から始まり、酒・たばことの対比、使用者の就労などに不当な不利益をもたらす取り扱い(スティグマ)、犯罪化されることによるさらなるアングラ化、「それで生計を立てている人もいる」という主張が規制反対論として通用しないことなど、共通点が多くあります。


〈以上〉


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