「褒める」と「認める」
こんにちは。今日は「褒める」と「認める」についてを書きたいと思います。最近読んだ論文で「褒める」が必ずしも自己肯定感に繋がらないのではって書いているのをみて、自分もそう思うなーって思って書いてみました。
田中道弘(2017).「日本人青年の自己肯定感の低さと自己肯定感を高める教育の問題」 自己心理学,7,11-22.
塾で授業するときにもかなり気を付けている部分です。
今回の記事もあくまでも1つのものの見方としてみて下さるといいのかなと思います。
褒める
これはいいことのようですが、諸刃の刃かなと思います。一般的にはプラスの意味でしか使わないかなと思うのですが、もう少し深く考えてみるといいかも知れません。
私は褒めることにとても懐疑的です。もちろんケースバイケースですが、褒めることは基本的に褒められている相手に対する期待が高まる感じがするからです。それはいいやんって感じですが、そうすると期待に応えきれない時の振る舞いが難しくなるのかなって思うのです。
例えば、「あんた、ほんまによう計算出来るなー」ってなると、出来ないときに言い訳が必要になります。「今日は調子悪いねん」そう言わないと、生徒自身は自分の才能を疑われるような感じがする可能性はないでしょうか。
この才能が疑われる感じがよくないと思います。学習などは結局のところ「自分が出来ないところ」をすることに意味があります。ところが才能を中心に考えると出来ない問題があることを許せなくなります。「俺は才能があるはずやのに出来ないわけない」。習っていないところを習うことは出来るけど、それを繰り返し説明されるとかは才能を基準にすると難しくなります。「何度も聞くってことは、才能がないって思われるんとちゃうか」。こんな考えがよぎる可能性があるのかなと思います。よって、安易に褒めるということは生徒の可能性を潰す可能性すらあると思っています。
若い頃は、意外と才能を大切にしがちです。大人になったら努力などが結局のところ大切だと感じるものですが、若い頃は才能を疑われることが苦しくなる人がいると思います。
ちなみに余談ですが、能力はBearの中では次のように定義されています。
【能力】=【回数】×【意識】×【方法】×【才能】
【才能】部分より【回数】や【意識】や方法をしっかりと考える方が、能力は結局のところ伸びます。しかし、才能がないと言われてしまうことを恐れるがあまり、回数を重ねない生徒がいるように私は感じます。
認める
それに対して認めるは、「変化を感じる」ということかなと思います。その人の微妙なところであれ、大きなところであれ、変化を感じることが大切だと思います。「計算が出来るようになってきたね」や「学校に行きたくなって来たのかな?」など変化の部分を見つけることが必要かなと思います。結果ではなく、変化の部分などを評価するということです。ちなみにこれは意識しないと出来ません。かなり難しいところがあると思いますが、その子どもをしっかりと見ていかないと出来ないことです。
結果を評価するのは同級生でも自分自身でも出来るので、それ以外の部分を評価するということが大切な部分かなと思います。
まとめ
今回は「褒める」と「認める」に関して、考えてみました。一概に「褒める」がダメと言っているのではなく、メリットしかないようなこともデメリットがあるかも知れないなと考えて頂けると嬉しいなと思います。
また、何か質問があればお知らせ下さい。
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