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美術家・宇佐美雅浩 制作プロジェクト「Manda-la in 東広島」体験レポート

11月3日文化の日に参加した、東広島市立美術館主催イベントの体験レポートです。当日の様子や、そのとき私が感じたことをまとめました。

自分が作品の一部になれるなんて、めったにない貴重な経験!

忘れないうちにしっかり記録を残しておきたいと思います。

「Manda-la in東広島」とは

「Manda-la」プロジェクトは、美術家・宇佐美雅浩さんが20年以上続けているプロジェクトです。

「様々な地域や立場におかれた人々とその人物の世界を表現するものや人々を周囲に配置し、仏教絵画の曼荼羅のごとく1 枚の写真に収める」というもので、今回おこなわれた「Manda-la in東広島」のコンセプトは以下の通りでした。

1945年8月6日、賀茂高等女学校に通っていた女学生は、学徒動員のため登校する途中に、B29が飛んで行くのがみえた。その後、ピカッと光った後にキノコ雲をみた。

一日を過ごしたのちに下校し近くの西条駅に行くと、列車で広島市から原爆の被害を受けた方々が運ばれてきていた。

原爆が投下された、広島市内の爆心地から直線距離で20Kmに位置する東広島市からもピカっという光と、キノコ雲が目撃できた。原爆投下後、賀茂高等女学校の女学生をはじめ多くの市民が東広島から広島市に向けて救護にむかい多くの被爆者を看護したという歴史がある。

また、明治期以降の近代化や鉄道網の発達とともに発展した東広島の酒づくりは、戦時下における物資不足や制限のなかでもそれを途絶えさせることなく、戦後の経済成長で繁栄していった。

当時は酒仕込みが本格化する秋冬時期に、農閑期に入る農業従事者たちは、県内外の酒蔵に蔵人として酒造りに携わる例が少なくなかった。女学生の親族は、農閑期になると酒づくりの仕事にかかわっていた。

本作品では、東広島の市民でさえあまり知られていない被爆者を救護した歴史と、酒づくりの繁栄を当時女学生であった人物を起点として、東広島の誇る、赤瓦の美しい屋根の風景にフォーカスを当てながらこの制作を展開する。

「Manda-la 東広島プロジェクト」撮影参加募集

東広島市立美術館のホームページでたまたまこちらの情報を見つけたのですが、ちょうど子どもを預けられる日だったので、ぜひ参加したいと思い申し込みました。

私の役は「救護を受ける倒れた人々」

事前に東広島市立美術館から来たメールによると、私に割り振られた役割は「救護を受ける倒れた人々」。当日は喪服、もしくは黒の長袖長ズボン、そして黒い靴で来てくださいということです。

コンセプトを読んで想像する私。原爆の被害を受け列車で東広島まで逃れてきた人の役なのではないかと解釈しました。

喪服を着るのはちょっと躊躇われたため、この日のために黒いブラウスを新調!撮影当日は、使命感に燃えて受付会場へ向かいました。

人であふれかえる受付会場

アザレアホール 説明会が始まるのを待っている参加者たち

受付会場となっていた東広島市市民文化センターのアザレアホールは、人と熱気であふれかえっていました。

受付の方だけでも10~20名。さらにそこへ、メールでの申し込みが済んでいる人と、これから申し込みする人に分かれて、かなり長い列ができていました。

関係者の方から聞いたのですが、天候不良で撮影日が1日ずれたため、参加者が減ったのだそう。急遽、追加募集をかけていたのだそうです。そういった関係で飛び入り参加の方が増えたのでしょう。

「救護を受ける倒れた人々」の服装は自前ですが、ほかの役柄(看護師、救護する人、酒造りの人、田植えをする人、神輿を担ぐ人など)には衣装がありました。その方々は受付でナース帽、白衣、法被、モンペなどをそれぞれ借りておられました。

赤ちゃんや子どもと一緒に家族で参加している方やご高齢の夫婦など、さまざまな方がいらっしゃり、参加者の年齢層はかなり幅広い様子でした。

いざ撮影会場の酒蔵通りへ

役柄についての説明や注意事項を聞いたら、いくつかのグループにわかれて撮影会場へ。撮影は西条本町の酒蔵通りの一画でおこなわれました。

アザレアホールから酒蔵通りまでは徒歩で10分ほどですが、上下真っ黒の服、ナース服、法被を着た団体が列をなして歩くと、はっきり言ってかなり目立っていました(笑)

待ち行く人々がチラチラとこちらを見ているのを感じつつ、粛々と会場へ。

心の中で「私、これから”Manda-la in 東広島”に参加するんです!」と叫びながら、ちょっと誇らしい気持ちで歩いていきました。

酒蔵通りに出ていた看板

役柄ごとに順にスタンバイ

やがて会場に到着。待機時間を経て、ついにスタンバイの声がかかります。「喪服の人はこちらへ!」私たちは指示に従い、黒いビニールシートの上に思い思いに横になりました。(「救護を受ける倒れた人々」は、現場では端的に「喪服の人」と呼ばれていました。)

参加者は、おそらくみんな美術好きの方々。

お互いに「こっちが空いてるからもっと寄った方がいいんじゃない?」「ビニールシートの境目が出てるから隠そう!」などと声を掛け合いながら、自分なりによい作品にしようと頭をひねります。

「救護を受ける倒れた人々」スタンバイ開始

全ての参加者をあわせると総勢150人くらいはいたでしょうか?全員のスタンバイが終わるまで、結構時間がかかりました。

私の位置からはよく見えませんでしたが、ほかにも赤ちゃんや、食事をする人などがおり、作品の中で大切な役目を担っている様子でした。

撮影

高所作業車を使って撮影する様子

いよいよ撮影開始。「撮影しまーす!」の声が聞こえると同時に、会場へ一気に緊張が走りました。

待ちくたびれた赤ちゃんたちの大きな泣き声。
その合間に聞こえる指示を聞きながら、それぞれのポーズで日差しに耐える参加者たち……。

ついに撮影終了です。終了の合図とともに、どこからともなく拍手が沸き起こり、なんだか感動してしまいました。皆さま、本当にお疲れさまでした!

待機中に考えたこと

黒いビニールシートに静かに横たわること30分。考えずにはいられなかったのは、今からおよそ80年前のよく晴れた日に起きた出来事のこと。

原爆の被害を受けた方々にも、私と同じように家族があったことだろう。そして「子どものもとに帰りたい」「お父さんお母さんにもう一度会いたい」そう思いながら、必死に手を伸ばしただろう。

あの日、たまたま、爆心地にいあわせた方たち。
今日、たまたま、ここに横たわる私たち。

その方たちと今ここにいる私たち。一体何が違うというのか。

あの日そこにいたのは、「私」であった可能性もあったのだ。

おわりに

今回撮影した作品は、東広島市立美術館で来年開催される、東広島市制施行50周年記念「Recollection ⇆ Vision 東広島の過去・現在・未来」展(2025.2.7-3.23)の主要作品として展示されるのだそうです。

今回、自分の位置から見渡せたのは全体のごく一部。だからこそ、完成した作品を見るのがとても楽しみです!

参加者一人ひとりが発するメッセージに思いを馳せつつ、宇佐美先生が作品全体に込めた思いを、しっかり受け取りたいです。

今回はタイミングに恵まれ、こちらのプロジェクトに参加することができて大変幸運でした。

公開された作品を見に行ったら、あらためて感想を書かせていただきますね。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

おまけ*待機時間のおしゃべり

撮影開始までの時間が思ったより長かったため、その間はプロジェクトに参加している方とおしゃべりをして待っていました。

お話しさせていただいた方のお一人は、広島から来られた女性。知り合いが撮影スタッフとして参加しており、追加募集がかかっていると聞いて急遽参加を決めたとのことでした。

もうお一人は地元の学校に子どもを通わせているお母様。美術部の子どもが仲間とこちらのプロジェクトに参加しているため、お母様も参加することにしたのだそう。

はじめのうちは遠慮がちに、自分の役割について確認したり、最近観に行った展覧会の話をしたりする私たち。

リラックスしてくると「あっ!看護婦さんがもう屋根に上ってる!」「あそこに小さく見えるのが宇佐美先生!?」などとワイワイ話しながら、撮影開始を待ちました。

お二人のおかげで待機時間も楽しく過ごせました。今思えば、連絡先を交換すればよかった……。もしお会いする機会があれば、ぜひまたお話しさせてください♪


◯東広島市立美術館ホームページはこちら

◯宇佐美雅浩さんについてはこちら

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