関係性に名前は必要か
私が昔、とても苦手だった質問がある。
「私たちって、親友だよね!?」
…思えば、私たちはとにかく関係性に名前をつけたがる。そして名前がつくことで安心してしまう。
確かに、小学生や中学生の頃は、友達とは一体なんなのか、親友とは何なのか、この子とは友達として接してよいのか、人間関係や距離感を考えていく過程で上記の質問が出てくるのはやむを得ないのかもしれない。
しかし、大人になるにつれ気がついていくことだが、親友は、いちいち親友かどうかを確認しない。そのような名前をつけなくても、「この人は私にとって信頼できて、いざというときに助け合える人だ。」とお互いが自然にそう感じていることのほうが重要だ。
また、そのように感じる大切な人であれば、自然と良い関係性を保つための気遣いもする。言葉にあてはめなくても、関係を構築していける。
むしろ、関係性を言葉にすると嘘っぽくなることもあるし、表面的なもので終わってしまうこともある。
たとえ何年も直接会うことがなくても、久しぶりに会ったときに深い話ができたり、静かに時間を共有することを楽しんだりできる人がいる。そういうときは、心が通じていると感じるし、この人は私を信頼してくれていると感じることもある。
そのような時、その関係性に名前をつけることにこだわることはしない。この人は親友だ、仲間だ、友人だと言葉で区切る必要はないと思う。人として信頼している、居心地が良い、心が通じている…など、ありのまま感じたことだけ受け取ってしまえばいい。
それに、関係性が複合的になる場合も多いし、その時によって役割が変わることだってある。親友、戦友、ライバル、同僚、先輩後輩、仲間、恋人・・・。人間の関係性はグラデーションのようでもあり、いくつもの役割を同時に担うこともある。
(そういえば昔は「友達以上、恋人未満」というようなまだ微妙な関係性にヤキモキして、「もう、はっきりして!!」「私たちって、結局何なの?」「いったいどう思われているの?」と気にしたものだが、それは自分の不安だったり、相手からの評価を気にしている結果だったり、相手を自分の思い通りにしたかったりで、今思い返せば問題は自分にあったなと思う。)
束縛したい、自分の思う通りに動いてほしい、他と明確に区分することで特別扱いをしたい・されたい。
けれども、人はモノではないから、所有できない。それぞれ意志を持っているから自分の思いと異なる行動だってする。
大人になった今、「私たち親友だよね?」と類似の質問をされたならば、そう確認される時点で関係性になんらかのトラブルがおこっている。もし自分がそのように確認したくなったときはなんらかの問題がすでに自分の中に潜んでいる。
相手に対する不安や不満があれば、それを伝えて解決していかなくてはならない。自分自身が不安定なのであれば、自分で自分を満たすことから始めなければならない。
相手を自分が独占したい、コントロールしたいという気持ちが隠れているならば、人はモノではないのだと、考えを改めなくてはならない。
他者との関係性に名前をつけることは重要なことではない。
重要なのは、自分にとって大切な相手と、どれだけ「濃くて深い時間」を共有できるか。そして、その相手を自分はどのように感じていて、一緒にいるときにどのような空気が流れていて、そして自分がどうしたいのか、という、自分の中にあるものを見つめる作業が大切なのではないか。
その過程で、「こういうのを仲間というのかな。」「ライバルだし、親友って感じだな」とふと思うもので、関係性とは最初に名前ありきのものではない。
人は所有できず、自分のものにはならない。関係性に名前をつけたからと言って、それで安心している場合ではないし、自分の思い通りにコントロールできるものではない。
大切な人であればあるほど、相手の存在を尊重し、対等な立場で関係を築き続けていくものではないかと思っている。