岐阜県・・手力雄命神社
平安時代に鎮座されていた時は、
「鄙守神社」・・ひなもり神社だったそう。
その後、鎌倉後期の花園天皇までは、皇室領であり、
花園天皇が大徳寺に寄進し、
大徳寺領になっていた。
なんで、寄進したのか、謎。
荘園制度が、ややこしすぎる。
それにしても、神社を寺院が寄進?
神仏融合の時代だったから、不思議ではないのかな。
調べてみると、花園天皇は、勤勉であり、
禅宗にもかなり傾倒していたらしい。
なので、自分の采配で、神社だけど、
というか、土地なのか?を大徳寺に寄進した。
大徳寺は京都、ここは岐阜。
こんな風に、荘園制度があり、
京都にいても、勢力も財力も増やしていくことが、
出来たんですね。
つまり、朝廷に気に入られた、僧は
神社までも、土地までもが頂けた、ということですよね。
でも、鄙守神社が、
手力雄神社になったのも、不思議。
謎だらけですね。