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あとがき -Lost in the pages終焉を受けて-
手紙を待った年だった。
「年だった」と言うには些か区切りの悪い季節だけれど、こう言うからには一つの区切りがあったのだ。『Lost in the pages』が終焉した。2024年6月末日のことだ。昨年4月末に始まったこのイマーシブシアターは、施設の閉鎖に伴って幕を閉じた。
そしてこれがどう冒頭に繋がるのかという話だ。Lost in the pagesにはプレミアムチケットという券種があり、そのチケットで観劇をすると後日登場人物から手紙が届くのだ。
私はそれを待った。手紙が届くには観劇してからおよそ3、4日かかる。それをひたすら待った。一日千秋の思いで待った。ポストに溜まったチラシを片付け、なるべく空にして、何かが届いたらすぐわかるようにして待った。どんな手紙が来るかと思いを馳せた。待ちながら観劇した時のことを思い出した。作中での彼らを脳内で再構築し、やりとりを再生した。そして待った。
『会わない間にどれだけ思いを馳せたかが愛情の量である』というような話を聞いたことがある。それに準ずるならば、私はあの舞台作品を比類なく愛していた。いつか「好きだ」とはっきり書いた作品もあった。しかしそれとはまた別の感情だった。おそらくこれは愛だった。
そして手紙が来る。
郵便受けを覗くと、薄茶色の小さな封筒が見える。それだけで少し口角が上がる。封筒が小さいのは、『彼』──この手紙の送り主である登場人物が、きっと無駄をあまり好まない性格だからなのだと思う。もう少し正確に言うなら、意味のない無駄を作らない人なのだと思う。一切の無駄を嫌っているわけではないというのは後述する話を読めば分かるだろう。なんにせよ、内容物に最適化されたサイズ。シンプルでミニマル。端的。そんな言葉は彼によく似合う。
封筒を裏返す。ある時は封蝋風のシール。ある時は花のシール。ある時はひまわりの。青い薔薇の。マカロンだったこともあった。桜のシールが貼られた封筒なんかは、明らかに口を止めるのには不要な、飾りだけの花びらのシールが2枚も添えてあった。ミニマルなこの手紙の唯一とも言っていい遊び心がここに踊る。これを貼る人を思い浮かべて、また少し笑ってしまう。ここには意味のある無駄がある。
そして封を切る。
待ちきれずにポストの前で開けた日もあったし、玄関ドアからデスクのハサミに一直線に向かった日もあった。なんとなく一晩寝かせて、翌朝仕事に向かう道で開けた日もあれば、昼休みの職場で誰にも見られないようにこっそり開けたこともある。しかし決まって1人で開けることにしていた。手紙とは得てしてそういうものだ。手紙を書くとき、そして読むとき、私達は必ず1人きり(あるいはその相手と2人きり)であると言って良いだろう。
中には紙が2枚入っている。大きい紙と小さい紙。封筒を切った口から覗いて2枚あるのを確認したら、まずは小さい紙を取り出して読む。言ってしまえばこちらには定型の文が書かれているのだが、欠かさず毎度読んだ。簡素な一言。しかしこの一言をちゃんと一筆書いて添えるあたりに、送り主の人柄が伺える。
そして、いつだって少し緊張しながら、息をきゅっと止めながら、大きい方の紙を取り出すのだ。
◇◇◇
私の元にあの手紙が来ることはもうない。私にはポストに溜まったチラシをせっせと片づける理由が、名目が、もうない。待つものがない。それは確かな喪失だった。私の日常に少しだけはみ出して来ていたあの物語は、もう二度と手の届かないところに仕舞いこまれてしまった。例えるなら閉架書庫のようなところに。声をかけられる司書もいないというのに。ポストには頼みもしないチラシが投げ込まれ溜まりゆくというのに。
私にとってあの作品は特別だった。何故かというのは明確には分からない。ただ、ひとつはっきりしていることを挙げるなら、あの作品の登場人物たちは皆どこか私に似ていた。私はこうして文章を書くのが好きだし、本を読んで空想の世界に飛び込むのが好きだし、締切を急き立てる仕事をしていて、他人の才能に憧れ嫉妬していて、灰色の日常に退屈していて、一応かつては医学部に属していた(医学科ではないけれど)。私の生活や人生、あるいは信条の延長線上にあの物語はあり、さらにその延長線上にかつての文豪が遺した何編もの名作があった。生活が物語を内包しているとも言えるし、物語が生活を内包しているとも言える。そのふたつは、少なくとも私にとって、切り離せない関係にある。
『過去も、未来も、現在も、さらには物語や妄想までもが交じり合う世界』というのは何もあの舞台に限った話ではない。それはイマーシブシアターという上演形式のせいも相まって、私の日常と実にシームレスに繋がっている。私が本を開くとき、きっと彼らもどこかで本を読んでいる。そしてその物語の中に没入し、登場人物の姿を想像し、彼らの心情に寄り添ったり自分との相違点を見つけたりしている。思えば読書こそ原初の没入体験であったはずだったのだ。そう考えると、Lost in the pagesでは没入の入れ子構造が発生していたことになる。劇中にあった数々の名著のシーンにおいて、Lost in the pagesの登場人物達と観客の私達は、名作を読む一読者として同じ階層にいたと捉えることもできるだろう。
そして、作中の彼らは皆何かに悩み苦しんで、迷っていた。私にとってはそれがものすごく『リアル』なことだった。悩みの内容も、悩み方も、実にリアルだった。「順風満帆な人生に芸術は本来必要ないものだ」という言説をどこかで聞いたことがある。逆説的に言えば、彼らは迷える者だから文学を手に取るのだ。その姿は、私がこの舞台作品に手を伸ばした事実にどうしても重なった。私はかなり頻繁に上野に足を運んだが、そのきっかけの大半は決してポジティブな感情ではなかった。それでもあの書店には彼らがいた。人生(なんて語れるほども生きていないけれど)の孕んでいるどうしようもない苦々しさがそこにあった。その苦しみが描かれていることそのものが、少しだけ私を肯定してくれるような気さえした。
そんな愛すべき隣人たちに相まみえることはもうできない。私は大切な場所を喪失してしまった。これは本当に確かなことだ。それでも私にとって彼らは『隣人』に変わりない。私が本を手に取る限り、彼らとどこかで繋がっている。触れられはしないけれど、いつだって地続きな場所で隣に立っている。そんな彼らの存在がもう届かない書店Labyrinthの中でずっと永遠であることを、心の底から願っている。
迷宮は物語だけを私の手の中に残した。
明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。
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本当に素敵な作品をありがとうございました。
きっと、ずっと、忘れません。