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【006:六箱 紫苑】2章『コッペリアの葛藤』16話
前の話
2章16話
反射的に視線を上げた先で、紫苑くんと目が合った。なんてことはない風に、いつも通り、風のない日の湖面のように穏やかな黒い目が、私をまっすぐに見つめていた。
紫苑くんはダイニングテーブルに頬杖を突いている。少し背中を丸めて、気だるそうな様子で、笑うでもなく怒るでもなくそこにいた。
「・・・そう、なんだ?」
なんてことない風を、精いっぱい装って返事を返しながら、視線を逸らした。
他にどうしろというんだ。いきなりここでヒステリックに返すなんて、流石にナンセンスが過ぎる。
洗い物をとにかく済まさなければならない、と大人な私が静かに告げている。まったくもっておっしゃる通り。でも、できるかどうかはまた別問題だ。
明らかにスポンジを握った手の動きは鈍くなった。それでも、洗い物を終わらせてしまうべきなのはもちろん分かっているから、のろのろと手を動かし続ける。
胸の内側で何かが爆発しそうだった。多分それは色んな感情が混ざった諸々だった。嫉妬ももちろんあったけれど、それにプラスして悲しいとか、ムカつくとか、なんでという疑問とか。まるで整理されていない感情が、支離滅裂に嵐のように入り乱れている。
これを爆発させたところで、きっと私は何を言っているのかもわからないようなことを泣き叫ぶことしかできないのだろう。そう判断する位の理性と冷静さは持ち合わせていて、むしろそれが厄介だった。いっそここで瞬間湯沸かし器見たいに怒りを導線にして感情を爆発させてしまえれば、こんなに苦しんじゃいないのだ。全部ぶちまけて、全部吐き出して、結果はどうあれ、すっきりさせてしまえるのに。
爆発させられないのなら、あとはもう冷静になるしかない。
ほら、冷静に考えろ。
大学の頃にちょっと遊んだ「程度」の女からの連絡だったという話じゃないか。それが何だというんだ。・・・やっぱり遊んでたのか、紫苑くん。まあそうでしょうね。緊縛とかどこで覚えてくるのって感じだし。付き合うようになった日も、なんでこんなに手馴れてるんだって思ったし。今更か。私だって別に処女だったわけでもないのだし、過去の交友関係にごちゃごちゃ言うのも違うだろう。
分かってる。
そう分かっているし、きっと普段なら、本当にそれ以上何も思わないのだ。「ふーん、やっぱりねぇ」くらいの物だろう。
でも今は、本当にタイミングが良くない。
ずーっともやもやとしていたところでの、その昔遊んでたという事をほのめかす内容は、私の理性の限界値を試しているような、そんな気さえする。
「鬼乃のアカウントにメッセージが来ててさ、また会いた――――」
「紫苑くん」
話を途中で遮った。
洗い物はまだ途中だったけれど、でももう無理だった。流しっぱなしにしていた水道を止め、私はなるべく感情を殺した視線を彼へ向けた。
「聞きたくない」
それだけ言い捨て、私は手も拭かずに台所を後にした。
一瞬視界の端に映った紫苑くんの驚いた猫のような顔が、次の瞬間にはボヤッと滲んだけれど、もうどうでもよかった。
瞬発的に沸き上がった怒りの感情のまま、私は階段を上がり、荒々しい音を立てて自室へ逃げこんだ。
そう、逃げたのだ。
泣き叫びたくないから逃げた。
泣き叫んだら嫌われるかもしれないと思って逃げた。
そもそも、何を叫んだらいいのかすらもはやわからなくて逃げた。
「ぅぅうううううああああああ゛ッ!!」
唸りながらベッドの上の枕を持ち上げ、思い切りベッドへと叩きつける。
何も解決しない上に埃が舞うだけの行為だ。
でも、でも今はそうすることでしか気持ちを発散できそうになかったのだ。ぼたぼたと際限なく涙が頬を伝い落ちる。階下にはきっと騒々しい音が聞こえているだろう。
だからなんだ。
もういい。
なんかもう、全部どうでもいい。
枕を投げ、布団を投げ、テディベアを投げ、椅子の上のクッションも投げ、とにかく投げても壊れなさそうなものを、手あたり次第壁やベッドに叩きつけた。
「ふーーー、ふーーーーっ・・・」
息が切れたのと、腕が疲れて来たので、自然と動きが止まる。怒りは確かに発散されたが、襲ってくるのは虚無感だけで、何の爽快感もない。
ぼす、とシーツすら乱れたベッドに倒れ込んだ。
胸から込み上げた感情が、また涙になって零れ落ちて、シーツをじわりと濡らしていく。
虚無感は酷いが、上がり切っていた怒りの感情は大分落ち着いた。お陰でもう、何の気力も湧かないが、思考は多少回せるようになった。
馬鹿だな私。
結局どうしたいんだろう。
そこが曖昧だから、何の答えも出ないのだ。
分かってる。答えを出すことそのものが今は怖い。敢えてそこから目を逸らしてきたのだ。でも、もうだめだろう、こんな部屋を荒らすくらいメンタルぐちゃぐちゃなんだから。いい加減向き合わなくちゃいけない。
SNSの女性とか、紫苑くんの行動にごちゃごちゃ思い悩んでいるけれど、結局のところ、私が何も・・・なんにも決めていないから、私の感情はこうも拗れるのだ。
「はぁ・・・・・しんど・・・」
湿った声でぽそりと囁く。
埃の舞う部屋の中、その声はやけに響いて聞こえた。
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