【006:六箱 紫苑】2章『コッペリアの葛藤』20話
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2章20話
「こんなの絶対おかしい」
涙で揺れる声で、それでも私はまだ訴えた。
だけど、私の頬を包む彼の両手を振り払わない時点で、滅茶苦茶な事を言う紫苑くんを容認してしまっているのは明らかだ。覆りようもない。
それを自覚しつつ、それでもなお、私は訴えずにはいられなかった。
だって結局、私はどこかで納得していなくて、でも紫苑くんが好きで、彼に合わせたくて、それで色々と拗らせてしまっているのだろうから。
私の頬を包み込んだまま、親指で流れ落ちた涙を拭ってくれた彼は、困った様な笑顔を浮かべて僅かばかり首を傾げた。
「何と比べておかしいのさ」
「え・・・」
「別に、ボクとあなたとの関係性の話をしているんだから、何かと比べる必要もないでしょう?世間の9割が忌避する関係だとしても、ボクとあなたが許し合ってるならそれでよくない?法律を犯してる訳でもあるまいし」
「・・・・・」
たしかに・・・それはそうだ。それはそうだけど、でもだって――――。
二の句を継げない私に、紫苑くんはゆっくりと言葉を続けた。
「ね。何が嫌?どうしたら、あなたは気持ちよくこの箱庭の中にいてくれる?」
ぞくりと背筋の産毛が逆立った。それでいて、心臓の辺りから、まるで温泉でも湧きだすような、心地よい感覚を味わていた。
何を勘違いしていたんだろう。そもそも、私にはここから逃げ出す選択肢なんて用意されていない。その事を、どうしてすっかり忘れていたのだろう。
「ぁ・・・」
「苦痛は取り除こうね。それは生活してる中で邪魔だし・・・嗚呼、ボクも随分と無粋な事をしたな・・・。でもどうしても興味が勝っちゃったんだよ。ごめんね?あなたが嫉妬してるのがあんまり可愛いから、ついついやりすぎちゃった」
ぽた
ぽた
涙が落ちていく。
諦念に近い安心感。絶望的な安堵感。
どうして忘れていたんだろうか。私は、このチェシャ猫みたいな男に捕まったのだ。恋人という立場だけれど、きっと関係性の名前など、彼にとっては何でもいいに違いない。
「嫌いに、ならない?」
「ボクからはならないかな。よしんば嫌われても逃がさないし」
あっさりと、彼は断言する。
「もし、私が家事しなくなったら・・・?」
「んー、まあ残念だけどそれでもいいよ。今までよりちょっと裸でいる時間が長くなる位じゃない?」
「・・・もし私が、佐々木さんともっと仲良くしたら?」
「なにかしら、佐々木さんを排除する方法を考えるよ」
彼の言葉には迷いがなかった。
うじうじとあれこれ悩んで病んでいた自分が馬鹿らしくなる位に、彼は明瞭な答えをはじき出す。そこには明らかな優先順位があって、そして幸い・・・かは分からないけれど、私の優先順位は相当高い位置にあるのだと、自惚れた。
「もし・・・私の中身が全く違う物に入れ替わっちゃったら・・・紫苑くんはどうするの?」
「ファンタジーだね」
荒唐無稽な質問に、彼はおかしそうに微笑んで、しかしやっぱり即答した。
「戻せないって分かったら、完全に人形にする方法を考えるよ。まあ、現実的に考えて肉体を保存するのは無理があるから、骨だけ取り出して人形にするかな」
「でも・・・」と彼はなんてことないように言葉を続けながら、こつり、と私の額に額を合わせた。
「ボクはさ、あなたのその目が大好きだから・・・きっとどうやったって、その目は再現できないだろうから・・・満足はできないだろうね。死体で作った人形じゃさ」
鼻の頭に触れるだけのキスが落ちる。
彼は酷く物騒な事を言っているのに、どう考えたってイカれきっているのに、私はこんなにも安心している。
「だから、別にどんな我儘を言ってくれてもいいんだけど、中身は何者とも入れ替わらないで欲しいかな」
「・・・わかった」
私は、私が思っていたよりも、ずっと壊れているのかもしれない。だから、こうして彼の作った箱庭に囲われてよかったのかもしれない。
「私、雇用契約より婚姻契約の方がいい」
「そう?なら書類準備しようか」
ぼそっとわがままを言ってのければ、彼は躊躇う素振りもなく私の言葉を肯定した。そんなバカなと思って、目の前の彼の目をまじまじと凝視するけれど、そこにはふざけた色もなければ、揶揄っている様子もない。
「・・・・・子ども欲しいって言ったら?」
「それはできれば遠慮したいな。あなたを誰とも共有したくないし」
そこははっきりと拒否された。でも、そうか。思っている以上に、彼の判断基準は私でできているのだ。
私の頬を包む冷たい手は、既に私の体温が滲んで随分と温まっている。その指先に、そっと自分の手を重ねた。
「もうちょっと・・・何でも言うようにしようと思う」
「うん。そうしたらいいよ」
彼の言葉に、少しだけ笑った。
箱を開けてみればなんて簡単な解決方法だろう。あれだけ悩んで泣き叫んでたのは何だったんだろう。信じられないくらいにくだらない。
「でもカメラはダメだと思う」
「・・・だめ?」
「だめ。ゆっくりできないもん」
彼は仕方がなさそうにため息を額を離すと、ついて肩を竦めて見せた。
「わかった。今あるカメラは外すね・・・カメラもバレちゃったし、今日はボクの部屋に来る?」
「・・・いいの?」
不意に誘われて私の鼓動がどくっと脈を乱した。
だって、もう1年も住んでいるのに、彼の部屋には入ったことがなかったのだ。私の問いかけに、噛絵rは笑って答えた。
「うん、今のあなたならなんか大丈夫そうだから」
多分それは、一般的には大丈夫じゃなくなってるってことな気がしたけれど、でももういいのだ。「一般的」なんてなんの役にも立ちはしない。
私と紫苑くんの間で許し合えることならば、それはもう、別になんだって構いやしないのだから。