【006:六箱 紫苑】2章『コッペリアの葛藤』17話
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2章17話
荒れた部屋を見たくなくって、壁側を向いたまま湿った息を吐く。
今更、エアコンもつけていなかった部屋が結構寒い事に気が付いて、でも壁側のスイッチまで行くのも面倒で、私は床に落とした布団を拾い上げて、モソモソとその中に潜った。
暗くて、温かくて、なんだか無性に、母に会いたくなる。
きっと会ったらまた喧嘩をするのだろう。結婚するだのしないだの、世間的にどうだの、まともな仕事をどうのこうの。そう言う耳に痛い話題ばかりになり、そうして私は、勝手に無性の愛を期待した分、想っていたのとは違う愛をぶつけられて勝手に落胆するのだ。
そうと分かっていて、でもたまに、無性に母に会いたくなるのだ。
そんなはずもないのに「おかえり」って、「もう大丈夫よ」って、優しく言って抱きしめてくれるんじゃないかって、そんな幻想を抱くのだ。
分かってる。そんな事にはならないだろう。
分かっているから、結局会いにも行かないし、面倒だから連絡も取らない。つくづく、勝手な娘だ。
「はっ・・・」
まただ。また逃げる場所を探している。
全部投げ捨てて、逃げてここまで来たというのに、ここからさらにどこへ行こうというんだろう。
結局のところ、こうも心が乱れているその根本は何かと言えば、恐らくは孤独感なのだ。私と彼のふたりっきりの世界の中で、私はどこかで、いつか彼に捨てられるんじゃないかと不安になっている。そうして捨てられてしまわないように、自身を抑圧して、言いたい事も言えなくなって、その圧力に耐えられなくなって心がひしゃげているのだ。
この場所に、安全に匿われていながら、どこかで安心しきる事ができない。
そして安心できない事を、言い出せない。
だってそれを言ったら、紫苑くんとの関係が崩れてしまうかもしれない。それを心底恐れて、結局こうして怒りを爆発させているのだから、馬鹿々々しいことこの上ない。
彼の私への執着はそれとなく理解している、つもりだ。いや、理解はできていないのだろう。理解できていればきっと、こんなに不安になんかならないのだ。
私が知っているのは、彼の味の好みだとか、本の好みだとか、色の好みだとか、そういう、趣向的な部分ばかりで、きっと彼の本質的な部分についてはあまり理解できていないのだろう。
だから、彼が私を大事にしてくれている事は知っていても、それでもたかだかSNSの女が出て来ただけで不安に駆られるのだ。
つまり、現状は、ビビって距離を測り損ねた、私の失態という事だ。
「・・・・ははっ」
馬鹿らしい。
実に滑稽だ。
鼻先へ涙が伝って落ちる。その感触が妙にくすぐったくて、乾いた嗤いが漏れた。
とどのつまり、佐々木さんも、あの女も、別にどうだっていいのだ。
ただただ、紫苑くんとずっと一緒にいたい。だけど、言いたい事もまともに言えない現状が心底苦しい。もし今後も、この関係を継続していくのなら、こうして口を噤むストレスを抱え続けるのはどう考えても無理で、でもそれを解消するにはびっくりするほど勇気が必要で。
だからこうして、少しずれた部分へ怒りを叩きつけて感情を誤魔化している。
首が疲れてきて反対側へと頭を向けた。
散らかった部屋が視界いっぱいに広がる。
別にこれまでだって、多少部屋が散らかる事はあった。生きていればずっと理想を保つ事はなかなかに難しい。
それでも、流石にこんな嵐が巻き起こった後見たいになったのは初めての事だ。引っ越してきた当日だって、段ボールが詰まれてはいたものの、もう少しマシな状態だった。
「・・・?」
ふと、地面に何かが光って見えて、私は体を起こした。
壊れるようなものは投げなかったつもりだけれど、何かしら壊れていても不思議はない。
バッタんばったん凄い音がしていたから、そこに紛れて何かが割れていても多分気が付かなかったと思う。
涙を雑に拭いて立ち上がり、とりあえず洟をかんでそのきらきらと光る物の前にしゃがみこんだ。
「・・・レンズ?」
凸レンズ、と言えばいいのだったか。表面が盛り上がった小さなガラス版が、そこには転がっていた。そのガラスには色が付いていて、ちょうど目玉のようになっている。
あっ、と思ってテディベアを拾い上げ、そしてその目に強烈な違和感を覚えた。
「・・・ん?」
ぬいぐるみの目というのは、穴をあけて挿し込んで固定するのが一般的だと思っていたのだが、紫苑くんがくれたそれは何かが違う。
レンズが外れた目玉は、妙に機械的で、そう、ちょうど・・・カメラのレンズのような――――。
きぃ・・・
「っ!」
心臓が竦みあがる。勝手に呼吸が上がる。
「落ち着いた?ココア入れたけど・・・嗚呼」
床に座り込んだままゆっくりと振り返る。そこには紫苑くんがいた。いつもよりもっと深い笑みを浮かべて、両手にマグカップをひとつずつ持って、はるか上から私を見下ろしている。
「あ・・・」
「うふふっ!ついに見つかっちゃった」
彼はそう言って、飛び切り嬉しそうに笑って見せたのだった。