日常生活言語論理哲楽者宣言
2018年12月25日 ·
「日常言語論理哲楽者として」という一文を加えていたのですが、これについてひとくさり。
俺が命名した「哲楽」とは何か。哲学的分野に造詣が深いわけではない俺がなぜこんな言い切りができるのか、しているのか。
言語は「どこまでいっても語り尽くせない」性質を持っている。だけど流通している。これはなぜか? 各人が各人の「納得」という行為の連続の果てのやりとりを無意識下で常時しているからだ。
論理的脈絡から一歩ポンと飛び越えた「納得」という行為を伴いつつ各人は言語を用い、厳密には一致し得ないながらも大雑把に意味する内容を交換しあい言葉の応酬をしている。
「あ!」と気づき(ユリイカ!)、その気付きに対して「うん、そうだな」と応答する。「阿吽」はこういうことを指しているだけであり、深遠な奥義を語っているわけではない。コミュニケーションの絶対的存在を前提に言語は成立している。
言語論理には別な形のものもあり一般的にはそっちの意味で流通している。数学論理。これは定義を要請し、それを受け入れた人々の間で発達した。
数学で用いられている言語は自然言語と違い、定義の厳密性が保証されている。なんせ「Aはこれこれだ」という定義を提唱し、受け入れることを要請し、そしてその要請を受け入れた者の中で流通しているのだから、定義が厳密であるのは自明の理なのだ。
自然言語はこれと違い、各人が各人なりの納得の仕方で言葉の意味を定義づけている。だから、各人により意味は厳密には一致していない。一致していないながらも大雑把には通じている。だから自然言語における論理は厳密性には欠ける。
自然現象を対象とした科学において、数学論理は絶大なる威力を発揮している。或る物理現象の説明に或る数式をあてはめるときれいにその意味を言い尽くせた。こんなことが日常茶飯事にあり、だからこそこの世界は数学論理に支配されているのだと断言してしまう者も出てきておかしくない。しかしながら、現実はちょいとちがうのだ。理論と現実は絶えずどこかしらで衝突しあい、この衝突をどうにかせんとあかんと理論的考究を深め観察を精密に行い円滑化を図っているのだ。形而上と形而下はそんなせめぎ合いをしている。
科学者にとっては当たり前の日常生活なのだが、科学者じゃない者にとっては「えっ? あれ、そんなものなの?」的思いにかられてしまうことだろう。
しかしながら、この事態、大雑把に見てみれば、日常言語と同じような構造なのだとわかることだろう。現実と言語との間のわずかなズレがこの現実を動かしている。これと同様のことが科学界でも起きているだけなのだ。
だからこそ「日常言語論理」的視点は、これからの人類の変遷にとって有意なんだよなぁ。とりとめないような話になったが、狐にほっぺをつねられたように思うだろうが、これが『真実』なのだw そして、こういうことをこれから俺はとくとくと語っていく人生になる予定なのだった。