芸術の道で生きていくということ
のらりくらりと数年続けていた書道を真剣にやり出して、約1年半が経つ。
意図的に「今ががんばりどき」と自分に聞かせて、意図的に急加速でエンジンを踏み、自分の伸び幅を「できるだけ太く」、伸びる時期を「できるだけ長く」を心に置いて、頑張ってきた。
〜楽しい、書くのが楽しい、伸びるのが楽しい〜
そんな気持ちひとつで、夢中で書いた。
量も増やした。時間も多く費やすようになった。
書いてる時間が楽しくて、なんでも吸収したかった。
「ただ、この感情は今だけの期間限定で、きっとこの"楽しい"が急になくなる時期がやってくるんやろな」
一応私も30代、体当たりで傷つくような思春期の年齢ではない。そういう、「急加速」の負の側面もきちんと見越していた。(つもりだった)
何事も、楽しいだけじゃすまない、苦しいと感じる時期も、絶対くる。
いつからか、「うまくなりたい」が「早くうまくならなきゃ」に変わってしまっていた
それは急にじゃなくて少しずつ来た。
春ごろから少しずつ感じていたなんとなくの違和感。
自分が自分自身にかける期待と、家族や周りの人が私を思ってかけてくれる応援にいつしか勝手に押され気味になっていた(のに気づくのはもう少し後のこと)。
追っかけられるように、ちょっと時間があれば書き、上達することに完全に急いでしまっていたと今振り返ると思う。
書いても学んでも、「良い字」が何なのかもわからない。
受験勉強やお商売と違って、逆算思考が使えない。
元来独学志向な私は、概論を掴んでから「なるほどね、こういうことね」と理解しないと闇雲に進めないクセもある。戦略グセ。
そのうち、紙代・墨代・その他出品料にお金がかかるからと、唯一好きだったお洋服選びのコストを切り詰めて、どうせ墨がつくからと黒の服しか着なくなった。
昔から大好きだったウィンドショッピングも意味がないものに思えてきて、外出も億劫になり、ひとつ興味を失うと連鎖的にいろんなことへの関心や意味を失い、息抜きというか日々のハリだった毎日の料理作りもだんだんと興味が持てなくなっていった。
めちゃくちゃ自分を勝手に縛ってた。
そんなときにタイミング的に重なった、ストイックな時期
そんなマインドの最中、所属する会派の展覧会出品の締め切りが、9月の初旬にあった。
私にとってはまだまだ全貌がよくわからない、2回目の出品だ。
とはいえ来年から外部展(会派を超えた展覧会)に出したい気持ちがあったので、今のうちにこの社中展を利用して、この夏あえて自分に「負荷」をかけておきたいと思った。
私のような初学者が作品を作るには、大まかに二つの方法がある。
①先生にお手本をもらって、その手本を頼りに書く
②お手本なしで、古典の字を参考にしながら、どう表現するのか自分主体で作っていく。創作の世界。
時期尚早・実力が足りていないのはわかっていたけれど、外部展を見越して、先生に
「お手本なしで、作品づくりを学びたいです」
とお願いした。
選文(何の漢文を書くか)は師匠にしてもらい、そこから自分で字を字典で拾い、書いてみる。
夏の錬成会(受験でいうところの夏季講習みたいなやつ)にも参加して、ぜーんぜん書けてないことをまざまざと理解して、また作品に向き合う。
文字の繋ぎ方、大きさ、緩急、作品の山場や魅せ場、書き出し〜書き終わりのまとめ方、行と行との関係性・・・
知らんこと・知ったとしても自分ではできないことばっかりだった。
「なるほど作品ってこうやって、こういう流れで作っていくんか」と、言語化はできないものの感覚的に輪郭が見えてきつつ、書いたものを軌道修正したり、壊してもっかい積み上げたりと、師匠とは何度も何度もお稽古で添削をしてもらった。
正直、あまりうまくまとまらなかったと思う。
当たり前やけど、手本もらった方がはるかに良いものを出せたと思う。
手本という拠り所がない状態で書くというのは、こんなにもしんどいことなのかと、中盤には一回絶望した。
こんなんで、これから自分主体でやっていける?と。
「一定、書道のルールや背景をきちんと知った上で、自分がどういう風に書きたいか」がないと難しいことだと感じた。
めちゃんこ、くるしかった。
基本的なルールやお作法が不勉強な中、正解がなく書き続けることの難しさ。
自分の中でまだ良し・悪しが形成されていないこの時期に、あえて負荷をかけてしまった自分に一瞬後悔もした。
開放感?逃げたかった?
約2ヶ月の制作期間を経て提出できた後、やっと終わったーという達成感よりも、やっとこの作品から逃れられる…というほっとした気持ちの方が大きかった。
逃げたい、逃げたい、逃げたい。
はよ終わらせたい。苦しい。
書道やってから、こんなに負の感情の渦巻きに飲まれることなんてなかったから、驚いたし、焦った。
ある一定まで行けば「楽しいだけの書道」ではなくなることも理解していたはずなのに、え、常時こんな苦しいん?って。
体当たりで大怪我しないぞ!なんて思ってたけど、全然大ケガしとるやん、下手くそやん。って。
勝手に縛りすぎてた自分、それも自分では無意識に縛っているのだから下手くそすぎる。
今はあんまり筆は持ちたくないなと、成長を焦る気持ちは一旦置いといて、
書きたくなるまで筆はきれいに洗って乾かしておいた。
久しぶりに、筆がからっからに台所で乾いてた。
時間を置いて、少し書道と距離をとって、筆を持つ日を極力減らしたら、不思議なことにしばらくすると、また筆を持とうかなと思っている自分がいた。
師匠の半切のお手本を横に置いて、筆を運ぶと心底安心した。癒された。
あー、自分でいろいろと判断するの、今の私には闇雲すぎてしんどかったんやわ、と改めて思った。
うまくはないけど、心地よく書けた。
もうちょっとこうしてみよかな、あれ?先生こここんなふうに筆持ってきてるな、なんて思いながら。いつもみたいに。
作品提出後の師匠との会話でわかったことがある。
この夏の私のようなことは芸事を追求する人ならみんな通ってる道だということ。
そして、この先も書道を続けていくために、向き合い方・付き合い方をだんだんうまくしていく必要があること。
それができないと、結局しんどくなっていつか辞めちゃうこと。
すこやかに続けていくには
「表現をして生きていきたい」
キャリアの分かれ道に悩むたび、ぼんやりとそう答えてきた。
幼稚園の時、ヒマがあれば廃材を集めて、ひとり黙々と自作おもちゃを作っていたあの頃の私の原体験が、今もずっと続いている。
その私の根源的な欲求を自分のために叶えてあげようとするならば、ここから先は、「すこやかさ」が大事だと気づいた。
闇のかっこよさは私は全く理解できないし、あまり近づきたくもない。
私は真面目な凡人だから。
すこやかに書道を続けていくためには、どうすればいいのか。
また感じて、考えていきたい。今もいろいろ、実験中だ。
伸びたい/上達したい気持ちは、自分を急加速させてくれることもあれば、ひとつ何かのボタンを掛け違えただけでものすごい勢いで転がってしまう時もあることを知った。
だからといって、書道を自分の人生のオプションに戻すことは、昨年秋に括った腹を裏切るみたいでなんか嫌だし、もうその選択肢はないと思う。
アクセル踏みまくった伸びの時期は、慣性の法則が切れてしまった今、残念ながらきっともう戻ってこないだろうけど、
それでもここからも着実に上達していきたい。
あんなに見えなくなっていたこの先の景色は、時折見えたり、また隠れたりしている。
でもそれは、自分が受動的に書道に取り組んでいない証拠でもあるし、見えたり見えなかったりでもよいのかもしれない。
あとがき
どこまでどんなふうに書くか、そもそも書かないか迷いました。
部分的に下書きにしていたいくつかの記事をがっちゃんこして、全てを書いているわけではないですが、この夏のことを自分の忘備録的に、そしてこうして言葉にすることで何かを消化できるかもしれないと、半ば走り書きで構成もとびとびですが、この洗い晒しのような状態で公開してみることにしました。