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「お人形さんみたい」
まず断っておくが、私はこれについて謙遜なんかしない。これがこの世で強大な力を持っているように見えて、如何に無意味でくだらないか、私がいちばんよく知っているからだ。
出会う人々は一般的に、私の見た目につられて集まってきて、誰も本当の私を、私の思慮深さを見てくれない。
誰も本当の私なんか知らない。
誰も彼も入場口は私のお顔で、まるで可愛ければ頭はからっぽでいいと言っているようだった。
そんなの許さない。
私が私であるのは、私として生きていられるのは、私が長らく逆境から頭をフル回転させてきたからだ。
私の重要なアイデンティティをこの顔が邪魔するなら、ぐちゃぐちゃに切り裂いてから思考を深めたっていい。
私には顔が記号にしか見えない
私にはあなたたちが文字にしか見えない
あなたたちが自分とアイドルの顔の造形を比較して落ち込んだり、気に入らない有名人の顔を貶めているのは、私にはサッカー選手について“背番号のみ”で論じ、一喜一憂しているようにしか見えないのだ。
あなたたちには私がどう見えているの?
顔で近付く人間は皆、私がこれについて問い詰めたらしどろもどろするだろう。人扱いしていないからである。あいつらにとって私は微動だにしないお人形さんで、はなからお人形さんは喋らないと思っているからだ。
これを考え出してから、老若男女が私に言う「お人形さんみたい」という言葉に、嫌悪感すら覚えるようになってしまった。
Twitterのアイコンばかりに夢中で、肝心のツイート内容を全く見ない人間などそうそういないだろう。ただ、対・生身の人間となると、これと同等の現象が起きる。滑稽極まりない。なにが見えているんだ。
いくら傲慢だと言われようが、これを考え続けることをやめない。自己研鑽もやめない。そもそも、なぜ自分の思考に対して謙遜しなくてはならないのか。私はルッキズムと同時に、日本のそういう悪習にもファックサインを立てていく。
最後に私と同じ世代、またはティーンに伝えたいことがある。
中顔面だとか上瞼のシワで一喜一憂しないでほしい。改善を試みないでほしい。そんなのは、顔の造形を利用しあなたの話を聞いてくれない馬鹿共が集まる“お人形市場”へ自分から売り出しに行くようなものなのだ。
どうか本をたくさん読んで。映画や音楽に触れて、情緒を深めてほしい。あなたがあなたでいるには、外見だけではいけないのだ。お人形さんになってはいけない。いつか外側と内側がひっくり返る時期が来る。その時、あなたは自信を持って生きていけるか?
かわいいは呪いである。