深読(23) - 男尊女卑に思う

人の考え方は簡単には切り替わらないものだなあと感じる。

筆者は九州在住であり、九州各県の空気はある程度知っている。

九州に「男尊女卑」の風潮があるかないかで言ったら、ある。
ただ、私の身の回りに限って言えば、それは「年輩者からの教え」「伝統的な処世術」という位置付けにとどまり、昨今のフラットなジェンダー観に対する理解もある。ある意味、幸運かもしれない。

「九州男児」という人物像がある。昨年ブームになった西郷隆盛のような、質実剛健だったり大酒飲みだったりするような男性像だ。
鹿児島県民なら「薩摩隼人」、熊本県民なら「肥後もっこす」がそれに該当するが、このようなステロタイプな男性像が広く認知されていることも、「九州=男尊女卑」のイメージを強めているきらいはある。

余談だが、同じ九州でも宮崎県では「芋茎木刀(いもがらぼくと)」というお人好しな男性像が知られており、九州男児のイメージとは多少異なる。

市議による時代遅れな発言によって、Twitter界隈では九州在住/出身の女性と思しきアカウント群によるちょっとしたmetooムーブメントが起こっているようだ。同時に「また九州か」「男尊女卑の国」などという風評も飛び交っている。

「実際は逆だ、女尊男卑だ!」などという反論は全く不毛だと思う。「俺はカアちゃんの尻に敷かれてんだ」という理由でミソジニーを正当化する論法は、「俺は先輩にしごかれた、だから後輩をしごく」と同様、不幸を連鎖させる。

性別、出身、障害、遺伝的特性など、持って生まれたものによって無謬性が保証されたり、逆に損をしたりする世の中は良くないよね、という風潮の方が望ましいと思うし、世の中は少しずつそちらに舵を切り始めている。(特定の社会的弱者をヒーロー扱いするのは逆差別であり、差別と心根が同じだといえる)

しかし、特定の思想が先鋭化して「聖典」と化し、その信奉者が優生思想を振りかざすタイプの「事件」は(程度の差はあるにせよ)後を絶たない。閉じたムラ社会で起こりがちだが、銃撃やテロといった過激な形で起こることもある。つくづく業の深い話である。

デザイン業界をはじめ、ありとあらゆる領域で「ユニバーサルであるか?」が問われるようになってきた。

ただし、筆者は「ユニバーサルでさえあればいい」とか「ユニバーサルでなければならない」とは思わない。甘っちょろいとか、頭がゆるいと言われればその通りかもしれない。

全ての事象は、正しいわけでも間違っているわけでもない。

どこかで誰かが、何らかの事象を、限られた力でつまみ食いながら生きているだけだ。

そして、ほとんどのことは自分自身には関係ない。正気を保つことにさえ努力を要する世の中で、見知らぬ誰かが好き勝手さえずっていようと、自ら進んで耳を貸す必要もない。

お後がよろしいようで。

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