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深読(16) - 可能性と「オタク」

深読みしたがりによる脳内言語化エッセイです。

「可能思考」が可能にするもの

可能思考」という言葉が、一部界隈で企業文化として根付いている。

この言葉は「(組織ぐるみで)無理を通して道理を引っ込める」ための方便として使われている節があって、そういう光景を見て、ああ、なんて日本的なんだろうと思ったものだ。もちろん悪い意味で。

「道は無限にある(だからやるぞー!)」「法律の範囲内で」というダブスタじみた説明がなされるのだが、我を押し通した結果(どんなに「正当な理由がある」と主張しても)意図せず法律・条例を犯してしまうという「可能性」など、決してゼロではない。(これはあらゆる営為においてそうである。誰しも無知や無自覚・不注意によって、あるいは悪法の効力によって、法の裁きを受ける可能性に晒されている)

可能思考云々は一切関係なく、法に関する知識のアップデートは常に行う必要がある。社会の中で生きるとはそういうことだ。

例えば、憲法改正に始まり、安全保障関連の立法、ハラスメント関係の条例、水道法改正などに対しては、潜在的にでも関心のある人は多いと思われる。しかし、日々の生活にエネルギーを奪われて情報に触れる機会がなかったり、アクションを起せなかったり、そもそも政治的な意思表示を避ける人が多いのもまた現実だと思う。

無法者の烙印を押され、獄中生活か賠償金を背負っても構わないという者だけが、厳密な意味で「道は無限にある(たとえ法を犯しても)」と言えるのだが、大抵そういう人物は物語や伝説の中の存在、もしくは現実に凶悪な犯罪を犯してしまった悪名高い存在である。

可能性に生きるオタク

多くの人は理想と現実の狭間に生きている。極端な理想主義者も極端な現実主義者も、原理主義的であるとして理解を得られにくい。だからその中間ぐらいでバランスをとりながら生きている人が多い。

理想の中ではあらゆることが可能だ。

内心、空想、妄想。
それを拡張・具現化させたのが、様々な芸術表現で、さらに拡張・具現化させたのが、展示会や即売会や舞台などのイベントだったりする。

そして、それらと一線を画した位置にある、理想の通用しない「現実」。

これらには明確な境界線、いわば結界のようなものがあって、「オタク」と「一般人」という分類はその一端である。

註:本節における「オタク」はという言葉は広義のものである。「深い造詣をもって何かに熱中する」人、属性、状態を意味する。

「オタクの集団はオーラがあって近寄りがたい」と言う人もいるが、その境界は属人的なものというより、実際はTPO次第であることが多い。例えば、コンサート帰りのファンが電車の中で大声で語っている光景を見て、お近づきになりたくないという人もいるだろうが、彼らは一時のテンションに身を任せているだけで、大抵は社会通念上ただしく日常を送っていたりするものだ。(だからといって何でも許容すべきという話ではない)

「一般人」と言うとおそろしく曖昧なので、以降「非オタク」と言うことにするが、「非オタク」と評される人物にも「オタク」的側面がないとは限らない。

何かに熱中することは、あえて言おう、全ての人に許された権利である。

仮に「非オタク」はいつ如何なる時も「オタク」になってはならない、という思想があったとすれば、突き詰めればそれはレイシズム(人種差別主義)となり、社会通念から逸脱しているとして糾弾の対象となりえるだろう。

疲れたオタクの「可能性」

話は変わるが、日常に追われ、何かに熱中する余裕を無くしてしまった「元オタク」「オタクの成れの果て」「オタクのなりそこない」などと呼ばれる人々がいる。

註:本節以降における「オタク」という言葉は、前節と異なり狭義のものである。すなわち「興味の対象が漫画・アニメ・ゲームなどのサブカルチャーである」人、属性、状態を意味する。

かつてハマっていた趣味に、(バイタリティや経済力の低減によって)熱を上げられなくなり、嘘のように無趣味になってしまうケースがある。

彼らはかつて熱中していたようなカロリーの高い創作物の代わりに、「操作を最小化した放置系のソーシャルゲーム」「物語の起伏を敢えて取り去った、頭を使わずに世界観に浸れる、ゆるい物語」「登場人物に全面的に甘やかされるシチュエーション」「登場人物が自分と同じように疲れ果てている話」などに価値を感じているようだ。筆者も元は勤め人なので非常に共感を覚える。

これらのコンテンツは、「何が面白いのかわからない」と評されることもあるが、一定の層にとっては、ひとつの「理想のかたち」である。商業的にもしっかり需要がある「売れ線」なのだ。

「疲れ果てた自分を、ダメな自分を、肯定してもいいのだ」という、これまた一種の(自己肯定の)可能性に満ちた世界である。そこには、社会から糾弾の対象とされうるような、エログロや児童ポルノが必ずしも必要とはされない。(キャッチーな要素として取り入れられてはいるかもしれないが)どちらかといえば「ゆるキャラ」のような性質を帯びている。

オタクは可能性を選ぶ

仮に、消費者としての「オタク」を雑に二分するとすれば、リアルタイムで流行を追いかけ、デジタルツールと若さを武器に、同世代とゆるくつながり、キラキラした青春を謳歌する10〜20代の「キラキラオタク」と、過去の名作やそのリバイバル作品を追いかけ、あるいは作品にかける情熱が萎み、一種の生きづらさを抱えがちな、30代以上の「老オタク」である。(いずれも筆者の造語である)

「キラキラオタク」と「老オタク」の間にはジェネレーションギャップがあり、それは「現代風にリバイバルされた過去の名作」の流行が一時的に小さくしてくれるかもしれないが、基本的にはなかなか相容れない関係性だといえる。とはいえ「キラキラオタク」はやがて「老オタク」へとジョブチェンジしていくだろうし、この手の世代間の溝は、極めてありふれた事象である。

「可能思考」に染まろうが、互いの推し(好きな作品やキャラクターなど)を無理矢理押し付け合おうが、相容れ難いものは相容れ難いし、上の世代にインセンティブがあるとも限らない。

現代は共感の時代といわれるようになったが、コンテンツの世界では、貴族が和歌を詠んでいた時代からずっとそうだったはずだ。世代が近ければ得てして共感度が上がりやすく齟齬が少ないというだけである。

「棲み分け」という言葉もオタク界隈でよく使われる。推しの違い、世代の違いなどが交流上のネックになる場合があるので、あらかじめ無用な対立や緊張を予防するためだ。排他的と見る向きもあるかもしれないが、少なくとも人間同士の交流において、精神衛生上ある程度の棲み分けはあった方が良い。

好きなことを好きなもの同士でやる。いわば「無理をしない」ことで、ネガティブな目に遭う可能性を最小化し、よりポジティブな、当人たちにとって・自分自身にとって有意義に過ごせる可能性を最大化する。そのような可能性の中にいることを選んだのが、「オタク」と云われる人々なのである。

近年「働き方改革」が推進されている。労働時間の短縮や、より個人最適を目指すライフスタイルとしての副業・兼業が叫ばれている。これは承前の「無理をしない」オタク的価値観とも親和性があるといえるだろう。

だが現実は、名目上の労働時間だけを短縮したり(もちろん不正である)、国を挙げての副業推進も虚しく、未だ8割以上の企業が副業を禁じていたりと、世知辛いものである。

このような現実にほとほと疲れて果てた「老オタク」好みの、頭を使わずに楽しめるローカロリーコンテンツは、まだまだ需要が伸びていくのかもしれない。

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