【連載小説】ふたり。(11) - side K / M
前話
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
8月2日 10:28 - 某メンタルクリニック・診察室
「だいぶ、顔色が良くなってきましたね。」
先生から言われると、お墨付きを貰った気になる。
私は、旧友であるあかりんや、写真部の野木さんと連絡を取るようになったおかげだと告げた。
「なるほどね。今の様子であれば、お薬の量を減らしてもいいです。今までのと、1段階弱いのを交互に飲んでみられて、様子を見ていきましょう。」
「先生、いつもありがとうございます」
同席していた母が頭を下げる。
私は意を決して言う。
「あの、私…今日は話したいことがあるんです。」
「はい、いいですよ」
「お母さんも、聞いてて」
母は何事かと言う顔をしたが、私の気持ちはもう固まっていた。
私は、カミングアウトした。
自分の性志向、好きな女の子の存在、彼女への秘めた想い。
話したのは、あかりんに続いて、これで3人目だ。
決して、誰彼構わず打ち明けたいわけではない。
話すのは、心から信頼できる相手にだけだ。
そうすれば、何か変わりそうな気がするから。
母が、目を真っ赤にして泣いている。
看護師さんがティッシュボックスを持ってきてくれて、丁寧に母に渡す。
「ふッ…どうして…今まで?」
「ごめんなさい。父さんのいないところで話したかった」
「違う…ふッ…ずっと…言えなかった?」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい!…謝るのはお母さん」
母が私を優しく抱き寄せる。
「我慢させてごめん…っ…!」
母の手に力がこもる。
はあ…。
こんな穏やかな気分は、いつ以来だろう。
先生は、看護師さんに何やら指示を出していた。
母が落ち着いてから、先生の口が開いた。
「薫子さん。よく話してくれましたね。つらかったですね。」
つらかった。
そうかもしれない。
私は本当はずっとずっとつらくて、その感情を麻痺させたかったのかもしれない。
「お母さん、当院では患者さんのプライバシーには厳重に配慮しています。ここで話されたことを外部に漏らすことはありません。薫子さんの場合はアウティング、第三者による暴露のリスクもありますので、慎重に判断して話してくれたと思います。娘さんの判断を尊重してくださいね」
「はい…」
「薫子さん、打ち明けてみて、どんな気持ちですか?」
「はい…母が泣いて…謝ったので、驚きました。」
母が大きく鼻をすする。
「でも、また一歩、前進できた気がします」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
8月3日 16:12 - 澤井邸・薫子の自室
「えっと…つまり、これとこれが同じだって考えるとわかりやすい、です」
「澤井さん…。あんた天才かよ。めっちゃ分かりやすいよ。わたし、数学解いちゃってんよ」
「ねー、さっすがかおちゃんだよ」
私は今、自分の部屋にクラスメイト2人を招き入れ、数学を教えている。
一人は、愛しのじゅんちゃん。
もう一人は、音楽専攻の月島さんだ。
驚いたのは母だった。
ほとんど家に同級生を招くことなどなかった私が、愛しのじゅんちゃんの次に連れてきたのが、背中にエレキギターを背負い、制服を着崩した強面の女の子だったのだから。
じゅんちゃんから事前にLINEが来た時は、私も相当驚いた。不登校のせいもあるけど、クラスメイトとはいえまるで接点のない相手だったので、さすがに訝しんだ。しかし、じゅんちゃんと月島さんの間で苦手教科が一致して、意気投合したとのことだった。
夏期講習のさらなる補修としてウチで勉強会をしたいという話がじゅんちゃんから挙がったとき、これはチャンスだと思い、湧き上がってくる衝動と闘いながら、理性的に、準備に準備を重ねた。
しかし、ふたりきりの蜜月(といっても、何もやましいことはしていないのだが)はわずか数回で幕を閉じ、もう一人、月島さんのためにも先生役をしなくてはならなくなった。
ただ、人は見かけによらないもので、月島さんは度が過ぎるほど真面目と言うか真剣だし、加えて体育会系特有の律儀さを身につけていた。勢いと丁寧さを兼ね備えた彼女の挨拶も、母や私を驚かせた。家中響き渡る大声で「お世話になります!こちらで勉強を教えていただきます、月島と申します!よろしくお願いします!」って。聞けば、陸上競技の経験者らしい。結構いい子じゃない、と母が嬉しそうに呟いていた。
「おっし、わかった、もう完璧に分かった」
「次また先生に当てられるかもよ?」
「大丈夫!きっと。はい、家でもう一回やっときます。」
私は思わず吹き出してしまった。
「ふふ、かおちゃんが楽しそうで、安心したよ」
じゅんちゃんが言う。
こんな日が来るなんて、今まで思ってもみなかった。
「なあ澤井さん、もっと楽しいことがあるんだけど、聞く?」
「ん…なに…?」
「ああ、怖がらないでいいよ。教えてもらうお礼に、一度カラオケに連れて行きたいんだ」
カッ…カラオケ??
「カラオケ…行った事ない…」
「大丈夫!歌って欲しいとか言うつもりはないし、ついてきてくれればいいから。びっくりするくらい歌上手いヤツ、連れてくるからさ」
その言葉に、ちょっと食指が動いた。
自分で歌うことにはだいぶ抵抗があるが、上手な人の歌を聴くのは好きだ。Maddyとどっちが上手いかな、なんてね。
「えっと、かおちゃん、無理だったらいいk」
「どう?明日は学校も休みだから、昼からとかさ。」
じゅんちゃんの言葉を遮る月島さんに、私は答えた。
「…うん…行ってみる。」
「いよっし!純もさぁ絶対聴いてみたほうがいいよ!」
「分かったよぅ。時間は、2時から3時くらいね?1時間だけ。無理はさせないから」
じゅんちゃんの優しさにはいつも癒される。
生まれて初めてのカラオケか。
私にとっては、前進というより冒険だ。
そして、月島さんがじゅんちゃんを呼び捨てにしていたことに、若干の嫉妬を覚えるとともに、自分の前進具合の遅さが恨めしかった。
ていうか、服…どうしよう。
こんな部屋着じゃとても、街中には行けない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
8月4日 13:50 - 某カラオケ店 受付前
やはり、月島瑠奈は強引だ。
今日は土曜。通例、動画のアクセス数が増えるタイミングなので、できれば作業に没頭していたかった。
一応、誘われたことを両親に連絡すると、
「いいじゃないか、友達とKaraokeなんて」
「そうよ、たまにはそういうタイプのコミュニケーションもしてみたら」
と推奨されたことで、退路を断たれたようなものだった。
彼女によれば、クラスメイトを2人連れてくるらしい。クラスメイトの顔と名前は一応把握しているが、一体誰なのかは知らされていない。彼女の連絡不行届きぶりには一度注意が必要か、いや、放っておこう。わざわざ私が労力を使う理由はない。
このカラオケパーティーも、何の変哲も無い、退屈なオフラインのタスクの一つに過ぎないのだから。当然、本気で歌う気は無い。学校でそうしているように、歌えと言われれば、適度な力量で、そつなくこなすだけだ。
「ブレンダ!」
背後から、赤いTシャツにジーンズ姿の彼女が現れた。さすがに驚いて肩を竦める。
「おま、グラサンなんかしてたから分かんないじゃん。髪型もちょっといつもと違うしさあ」
「え?同じクラスの、アダムスさん?」
この子は美術専攻の大空純か。外ハネの髪型ですぐわかった。グリーンのワンピースがよく似合っている。もう一人の小柄な彼女は…見慣れないな。まさかとは思うが、不登校の澤井薫子?
「かおちゃん、アダムスさんだよ。わかる?」
「あ…えっと…ごめんなさい、覚えてなくて」
どうやら予想は当たったようだ。青白い顔色。目深に被った大きめのストローハットと、体型がわからないような、ゆったりした七分袖のブルーのムームー。彼女は1年次、ごく短期間登校していた時の印象しかないが、どちらかといえば痩せていた。しかし今はフェイスラインが不自然にふっくらしている。不登校の原因はメンタルの不調だと聞いていた。おそらく薬の副作用で体型が変わってしまい、人目が気になる、といったところか。
プロファイリングもそこそこに、私はいつも通り、社交の仮面をつけて挨拶する。
「アダムスです、澤井さんとは、1年3ヶ月ぶりくらいですね」
「あ…そうですね…」
私と視線を合わせない。警戒心の強い気質のようだ。
彼女のメンタルのためにも、これ以上は深入りしないでおくとしよう。
「じゃあ、わたしが受付してくるから、3人で待っててよ。ブレンダ、今日は思いっきり頼むぞ。1時間じゃ物足りないかもな」
月島瑠奈が、ガハハと笑って踵を返す。
さて、どうするか。とりあえずサングラス越しにこの2人を観察してみよう。
「かおちゃん今日オシャレだね〜。可愛い!」
「そんな、じゅんちゃんこそ…。この服はお母さんが…」
ワオ。
この感じ、いきなりピンと来てしまった。
サンフランシスコ時代、私に近付いて来た年上の女性、カミラ。
彼女はシッターであり、エネルギッシュで奔放な同性愛者だった。
両親の目を盗んで幼い私にキスを迫ることがたびたびあった。身を委ねることを求められることもあったが、当時の私にはある意味で興味深くもあったが、同時に恐ろしくもあり、なによりそれが重罪だということは知っていた。
子供なりに、彼女を尊重しつつ、自分も傷つかないように、丁重に丁重に、一線越えを回避してきた。
その時に肌で感じた空気を、澤井薫子からも感じる。ただし、彼女の場合は臆病な小動物のような気質とあいまって非常に遠慮がちだし、何よりこの国ではまだセクシャルマイノリティへの風当たりが強いと聞いているので、身の危険はまずないだろう。
澤井薫子は大空純に、並々ならぬ想いを密かに寄せているであろうことは、おそらく疑いようがない。その一方で、大空は勘付いていないのか、ごく自然体に見える。
まあ、いずれにせよ私にできるのはせいぜい見守ることくらいだ。
「ドリンク、コーラでいい〜?」
月島が大声で叫ぶ。
相変わらず無鉄砲というか、なんというか。
私は両手を掲げ、大きなサークルを作って見せる。
「かおちゃんどうする?」
「じゅんちゃんと同じでいいよ」
「わかった。わたしたちもコーラねー!」
この二人、なかなか微笑ましいカップルだ。
いや、友達以上恋人未満と言った方がいいか。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
8月4日 14:02 - 某カラオケ店 234号室
「さあ、歌いなさい」
月島さんが、アダムスさんに歌うよう促す。
私といえば、初めて入ったカラオケボックスに緊張しっぱなしだ。
意外と音が大きいし、隣で歌う人の声も聞こえてくる。
じゅんちゃんは慣れているのか、マイクとタブレットのような機械をアダムスさんに手渡していた。
「音楽専攻の人の歌、楽しみだね」
「あ、うん…」
「さあ時間はないぞ、お前のオハコは『紅』だってことはわかってんだぞ」
「いえいえ、今日はそんなに激しいのを歌う気分ではなくて…ほかのを」
「本気で歌わなかったら、どうなるかわかってるな?」
「瑠奈ちゃん、その言い方怖いよー。」
じゅんちゃんが、月島さんを下の名前で呼ぶと、私はちょっとモヤモヤする。
「わかってます。今日はお二人へのお披露目。ですよね。」
アダムスさんが端末を操ると、部屋の音楽が止まった。
モニターに、曲名が映し出される。
これがカラオケというものか。
私は浦島太郎の気分だった。
世界に一つだけの花
SMAP
知ってる。音楽の教科書に載ってた歌だ。
アダムスさんが、和やかに歌い始める。
じゅんちゃんが、部屋にあったマラカスを歌に合わせて振り始めた。
待って、かわいい。
かたや、月島さんは厳しい顔をしている。どうしたんだろう。選曲が不満なのかな?あんまりイライラしないでほしいなぁ…。
それにしても上手だ。男性のような低音を、流れるように歌い上げている。
1番が終わり、じゅんちゃんがマラカスを振りながら「いえーい!」
ああもう、かわいい。
月島さんはさっきから微動だにしない。こわい。
この密室には、天国と地獄がひしめきあっている。
にしても、アダムスさん、歌うまいなあ。Maddyと同じくらいうまい。
そう思いながら2番が始まった瞬間、
私はふと気づいてしまった。
この声の出し方。このビブラート。
もっとよく聴いてみよう。
やっぱり、聞き覚えがある。
発作や不安に苛まれて眠れない夜、子守唄がわりにMaddyの動画をエンドレスで流している私は、微妙な歌い方のクセを感覚的に憶えている。
その歌声が今、目の前のアダムスさんと、大きなスピーカーから発せられている。
集中して聞き入っているうちに、曲は終わりを迎えた。
拍手を送る代わりに、マラカスを振るじゅんちゃん。いつ見てもかわいい。でも、今の私は驚きの方が勝っていた。
「まあ、いいとしよう。」
月島さんが言う。
「純、澤井さん、どうだ?この歌声なら、ステージで歌っても見劣りしないと思わないか?」
「あー、確かに、ライブとかできそうだよね!」
じゅんちゃんが言う。
もちろんだよ。
ライブどころか、この声、世界中に発信しちゃってるよ。
「おや、大丈夫ですか?澤井さん。顔色が良くないですよ?」
「ほあっ!?」
驚きすぎて変な声が出た。
アダムスさん、普通に喋る声は、歌う時の声と全然違う。
「冷や汗かいてますし、ちょっと、お手洗いに行きましょうか」
「あ、ちょっ。ブレンダ…待っ…」
月島さんの制止も虚しく、私とアダムスさん…いや、Maddyの声を出すクラスメイトは、ふたりで部屋を出た。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
8月4日 14:08 - 某カラオケ店 廊下
トイレに誘ったのは、もちろん口実。
澤井薫子を音漏れの少ないところまで連れ出し、いくつかの質問をするためだ。
「ご気分はどうですか?澤井さん」
「あ、あの、大丈夫…」
「それは良かった。ところで。」
彼女の警戒心を解くように、微笑みながら言う。
「Youtubeとかお好きですか?実は私ヒカキンの動画いつも見てるんです。澤井さんは何か見たりします?」
彼女は高速で瞬きをしながら暫く考え、こちらを見据えて絞り出すように答えてくれた。
「マ、ディ…」
やはり、さっきの歌で正体に気づかれた可能性が高い。
驚きながら何か言いたげな表情をしていたので、連れ出すことにしたのだ。もし予想通りであれば、月島瑠奈以上に勘が良い。口止めしておいた方が得策だ。もう少し様子を見てみよう。
「そうですか!Maddy、私も好きですよ。最近トレンドになったりしてますよね?」
彼女は目をぱちくりさせて混乱した様子だったが、少し語気を強め、こう言い放った。
「あなたが、そうなんですよね?」
やや興奮気味にこちらを直視している。
なるほど、彼女にはこんな一面もあったのか。
私は頭を下げてみせた。
「観念します。Maddyは私の本名。So, my name is Brenda MADDY Joy Adams. Please understand.」
「私は。」
彼女は大きな目を潤ませながら、さらに捲し立てようとする。
これ以上は煙に巻けないか?
「私は、あなたの歌に救われました。病気で…眠れなくて不安な夜、ずっとあなたの歌が子守唄だった。あなたの歌を聴いていると、辛い気持ちを忘れることができた。感謝してるんです。だから今っ、言わせてください。ありがとうっ…」
彼女は肩を震わせ、下を向き、涙を零している。
…どうやら、私の完敗のようだ。
「こちらこそ、そんな風に言ってくれて嬉しいよ。ありがとう、澤井さん。」
彼女の肩に手を置き、キャラ作りも忘れ、真摯にアンサーを返した。
「私の正体だけは、バラさないって約束してね。」
彼女はただ、コクリと頷いた。
「うん…さあて、そろそろ部屋に戻りましょうか。234号室で、愛しい人が待っていますよ」
彼女はギクリとして目を見開いた。
ワオ、今のは私のミスだ。
つい口が滑ってしまった。
「あー、私の祖国では友達みな愛してます、だから、愛しい人は友達の意味、ネ?」
唐突な英語訛りでその場をしのぐ。キャラ崩壊というやつだ。
まるでスマートじゃない。
「…そっか。」
咄嗟の出任せだったのだが、なぜか納得されてしまった。
まあ、考えてみれば無理もない。
彼女は自分の恋愛感情にまるで自信がない。少しでも後押しが必要なのだろう。
私たちは、2人が待つ部屋に戻った。
「すいません、澤井さん、回復したみたいです」
「おかえり、大丈夫?かおちゃん」
「うん。大丈夫」
「澤井さん、こいつの歌の感想聞かせてくれ、どうだった?」
月島が目を輝かせながら訊く。
彼女の答えは。
「うん。最高だった」
どうやら、本当に観念するしかないようだ。
残された40分程度の時間は、月島の意向によって、ほとんどが私の独擅場となった。
私は、知る限りの「同性愛を肯定していると言われているナンバー」を、澤井薫子へのエールのつもりで歌い上げた。もちろん、失礼のないように、一切手抜きはしなかった。しかも声真似のオプションサービス付きだ。
川本真琴 “1/2”。
Every Little Thing “Stray Cat”。
Lady Gaga “Born This Way”。
感受性の強い彼女のことだ、私からのメッセージに、多少なりとも気づいてくれただろう。ぎこちなく手拍子をしながらも、笑顔で聴いてくれた。
月島が、唐突に受話器を手に取る。
「あのー、すいません、延長したいんすけど」
「瑠奈ちゃん1時間って約束じゃん!あーなんでもないです、延長なしです!」
まるでコントのような月島・大空コンビのやりとりに、澤井は口に手を当てて大笑いしている。
お母さんが言っていた通り、意外とこんな日も悪くないかもしれない。
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8月4日 15:13 - 某駅前
「今日はありがとうございました」
アダムスさんが、丁寧にお辞儀をする。
「そんな、こっちこそ、すごく楽しかった」
私もじゅんちゃんと同じか、それ以上に、いい時間を過ごせた。
画面の中の存在でしかなかったMaddyが、私の目の前で、歌で語りかけてくれたのだ。どこか私の想いを代弁してくれているような恋の歌が、心に深く沁み込んだ。
「アダムスさん。じゅんちゃんも月島さんも。今日はありがとう。」
月島さんが、拳を前に突き出す。
「今度、ブレンダと一緒にステージに立つから。その時はチケット渡すよ」
「いいえ、それにはまだお返事してませんよ」
「っ…!!アンタ、この流れでそういうこと言う!?」
私たちは、笑いあった。
こんな輪の中に入ったのは、一体いつ以来だろう。
各々のスマホで、自撮りの要領で4人の集合写真を撮る。
いくらか名残惜しさはあったが、今日のところはそれぞれの家路に着くことにした。
道中、登り坂で息切れする。
休み休みの帰り道だ。
やっぱり、母に車を出してもらった方が良かったかもしれない。
でも今日だけは、自分の力で外に出たかった。
ほら。やっとの思いで家に到着だ。
やった。
久しぶりに、お出かけできたんだ。
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8月4日 16:00 - 澤井邸
「ただい、ま…」
驚いた。
くたびれた大きなスニーカーが玄関にある。
父が、帰ってきている。
どうして?今日は仕事って言ってたのに。
呼吸が浅くなる。
静かに手を洗い、嗽をする。
足音を立てないよう、リビングへ向かう。
「おう、おかえり」
だらしなく両足を投げ出して、テレビを見る父。
「ただいま…」
「今日は仕事が思ったより早く終わってな」
「うん…お母さんは?」
「買い物だ。なあ、今日は街まで行ってたんだってな」
心臓がドクンと跳ね上がる。
やめて、その先を、言わないで。
「この調子だったら、夏休み明けにはちゃんと学校行けるようになりそうだな。ん?」
だから、言わないで。
胸が苦しい。
体が震えだす。
私は無言で冷蔵庫からペットボトルの水を取り出すと、2階の自室へ向かった。
「チッ…」
舌打ちの音が聞こえてきた。
聞き間違い?
たまたま?
わざと?
今はそんなことを考ている場合じゃない。
私は部屋に入ると、鞄を放り出してベッドに倒れ込んだ。体の震えが止まらない。うまく息ができない。深呼吸、しなきゃ。
さっきまでの楽しい時間が嘘のよう。
私は今、どん底で這いつくばることしかできない。
(つづく)
次話
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連載小説「ふたり」は、あと2話で最終回です。