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(備忘録)洲ノ埼燈臺

洲埼灯台の概要

位 置 北緯34度58分31秒 東経139度45分27秒
   (千葉県館山市洲崎字大塚1043)
初点灯 1919年(大正8)12月15日
光り方 単閃白赤互光(30秒ごとに白1、赤1)


東京湾と太平洋の境界をなす

▶洲埼灯台と剱埼灯台(神奈川県三浦市)とを結ぶ線は東京湾の境界線と定義されている。

(法適用海域と他の海域との境界)
第一条 海上交通安全法第一条第二項の法を適用する海域と他の海域との境界は、次の表に掲げるとおりとする。
東京湾 洲埼灯台(北緯三四度五八分三一秒東経一三九度四五分二七秒)から剣埼灯台(北緯三五度八分二九秒東経一三九度四〇分三七秒)まで引いた線

海上交通安全法施行令(昭和四十八年政令第五号)
剱埼灯台(神奈川県三浦市南下浦町松輪)

本灯台の建設の理由

▶不明であるとのこと。

千葉海上保安部職員から「なぜここに灯台ができたか、記録が残っていない」と知らされ、参加者は一様に驚いた様子を見せた。街が発展すると港も大きくなり、船の目印になる灯台の必要性が高まり、地元から国へ建設を陳情したというのが、海保職員の見立てだった。

「洲埼灯台 船照らし100年 関東大震災、太平洋戦争乗り越え」
東京新聞 首都圏ニュース 千葉 2019年8月7日 02時00分

▶洲埼灯台付近の海域は航海の難所であり、特に南方の平砂浦海岸への誤進入による座礁事故が相次いでいたという。

平砂浦海岸は鬼が浦とも称され、東京湾に向かって航行する船舶が、最も注意を要する難所でした。かつては荒天や暗夜の際、野島埼灯台を目標に航行し、布良崎を洲崎と誤認して、平砂浦海岸を東京湾と間違え進入し、座礁することがあったといいます。しかし、洲埼灯台の建設後、そのような事故はなくなったそうです。

【国登録有形文化財】洲埼灯台(館山市HP)平成27年9月9日

洲埼灯台は、大正8年(1919)に洲崎の庚申山に建設され、同年12月15日に初点灯しました。円形の鉄筋コンクリート造で、建築設計並びに現場監督を航路標識管理所技手・斎藤新治郎が務め、総工費3万6,034円57銭を要しました。

同上

「庚申山」について

▶灯台の中腹に洲崎帝釈天(漂のコウシン様)があることによると考えられる。

コウシン様
漂(みよ)の庚申講の人々が祀った庚申様。庚申信仰の本尊は青面金剛で、帝釈天の使者である。そのため、ここの庚申様は柴又の帝釈天で授与されたもので、毎月8日の帝釈天の縁日にお籠もりをしている。大漁祈願をする人や、赤ん坊ができてお参りする人もあるという。むかしは「オカノエサマ」といって、ひと月おきに集まったという。庚申講はもとは、60日に一回ある庚申の日に徹夜をしてすごす風習だった。

「わたしの町の歴史探訪-洲崎-」館山市立博物館

▶「オカノエサマ」は「丘の上」だろうか?

▶庚申は60日に一度人々が集まり夜通し酒食を共に語り合うことで長命を願う民俗宗教である。元来人間に宿る「三尸(サンシ)」という虫が庚申の日に天へ悪事を報告することを阻止する意味合いがあったとされている。
▶帝釈天は信仰の過程で庚申の本尊とみなされた。この総本山が柴又の帝釈天である。この縁か、洲崎帝釈天にも寅さんのポスターが貼付されていた

三猿や青面金剛、猿田彦が近世中期までの間に庚申の本尊として、新しく取り入れられたのと同様に、天部の仏教神である帝釈天もまた庚申の本尊として扱われるようになっていく。その理由には、第一に帝釈天が天帝と同一視された点が挙げられる。

綿谷翔太「柴又帝釈天の庚申信仰~柴又型庚申塔の分布に関する一考察~」

漂(みよ)という集落名について

▶洲崎神社に参拝した源頼朝が笠を松に掛け「あれ見よ」といったことからとつたわる。この松は今もある。
▶当然のことだが、伝説のため額面通り受け取ることはできない。

▶「漂」の字には「ミヨ」という読み方はない。
▶もしかすると「澪」の誤記ではないだろうか。

▶「澪」は航路・水路のことであり、「澪標(みおつくし)」といえば近代以前の航路標識のことである。

わびぬれば 今はた同じ 難波なる
みをつくしても 逢はむとぞ思ふ

元良親王

▶前述の通り洲埼灯台の建設理由は「不明」。しかし、そこには古来から航路にかかわる地名が息づいていたのではないだろうか。

参考文献

洲埼灯台 船照らし100年 関東大震災、太平洋戦争乗り越え

【国登録有形文化財】洲埼灯台
https://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page010099.html


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