岡村隆史のANNで人格をわかった気になってないか? 2020年5月1日の日記
今日は日記として4月30日放送の『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』について書きます。
私は先週、今週と連続で放送を聞いておりまして、一応経緯は把握しているつもりです。その上で昨晩の放送内容に引っかかるものがありました。私が今から挙げる問題点はたった一つの側面でしかなく、もっと様々な角度から論じていかなければならないことであるのは承知しております。
その上で、今回問題点としてお話ししたいのは「ラジオで岡村さんの人格を矢部さんが規定してしまったこと」です。
「岡村は金持ちのインセルです」という風に受け取られかねない物語を、大勢が聴く公共の電波で流してしまったことに重大な問題があると私は考えます。
まず、芸人のコンビが今はあまり一緒に仕事をしていなくとも、30年の月日を共にしていればお互いのことは他の誰よりわかるだろうとリスナーは認識してしまうのです。よって相方が語る相方の人格など、どうあがいても真実だと捉えられてしまいます。また、ラジオは即興性・リアルタイム性を価値とするメディアです。加えて、ANNなどの深夜ラジオには「人気者が昼間は見せない顔を楽しむ」側面もあります。これら3点が重なり、ラジオで流される情報は、より喋ったことと人間がイコールで結ばれやすいです。
だからこそ先週の放送内容が岡村さんの人格と結び付けられて、今週の放送で矢部さんに「欠陥のある岡村の人格」がもたらした厄災として語られてしまったのでしょう。
「彼は金持ちインセルである」という言葉は(実際にこんな言葉は使っていませんでしたが、簡単にまとめるために乱暴な言葉を使ってしまいました。申し訳ございません。)本来人格攻撃なのに、矢部さんは「真実味」を背負わせるラジオという媒体で、岡村さんの人格を規定し、その上批判しました。岡村さんの「真の」人格を語る上でこれ以上ない真実性を持たせることのできる人は、相方の矢部さん以上の適任がいないでしょう。その彼が今週の内容を話してしまったら、リスナーは矢部さんの喋った岡村像を「真実の岡村」として見てしまう人がほとんどであると確信しています。
ANNのハッシュタグでは、まるでホアキンの『ジョーカー』が公開されていたときのようになっていました。あと一歩踏み込んだら、オレはこれだったかもしれない…。自分は他人事として矢部さんの言葉を聞くことができない…。このような言葉を多く見かけました。
公共性の高い人間は公共によるイメージ=「人格」となるなら、今回矢部さんに語られ広く伝わってしまった「岡村の人格」が岡村さんの人格に違いありません。ですが、岡村さんはジョーカーではないのです。創作上の人物ではないのです。あるいは、そんな人いませんが100%公共の人ではないのです。私たちは、今回広まった「岡村の人格」=岡村隆史と見てしまっていいのでしょうか?この人格を「岡村隆史という人間の真実」として妄信してしまっていいのでしょうか?
矢部さんが語った完璧な物語構造には、人格批判を含めた大変グロテスクな未来が待っている気がしてなりません。
今週のラジオで語るべきことは、矢部さんの知っている岡村隆史という人格をフィードバックし、内省の末に反省を導くことではなかったでしょう。様々な角度で語らなければいけない問題へのとっかかりとして、貧困層・性差別への想像力について対話することだったのではないでしょうか。
また、これ以後は「岡村の人格」とは切り離した議論に移行しなければならないと思います。今週のANNの内容を受け、他人が無作法に、無遠慮に岡村さん個人に対して精神病理学による診断みたいなものを行っている気持ち悪さに気づかない限り、この移行は行われないでしょうが…。