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「神戸」 ②梅田のおっちゃんとそば飯

 小学生の頃、歩いて1分くらいのところに梅田さんと呼んでいたお好み焼き屋があった。看板もなく、板張りのかなり年季の入った小屋のような店で表にはアイスが入ったボックス、入店してすぐ左脇には駄菓子の棚、真ん中に鉄板がある10畳ほどの小さな店だ。その店は持ち込みで白飯を持っていくとそば飯を作ってくれるため、時々土日の昼時になると祖母が鍋に白飯を入れて
「梅田さんとこ行って来て、そば2玉で頼んでや。」
とお金と鍋を渡され遣いに行っていた。
 梅田さんと言うおっちゃんは当時で50歳か60歳くらいだっただろうか。色黒で白髪30%くらいの頭、首にはタオルを巻いて白いTシャツをいつも着ていた。気さくな人で私が行くと満面の笑みで
「よう来たな。今日はそば何玉や?出来るまでそこ座っとき。」
と声をかけてくれた。鉄板からのぼる油とソースの焼ける匂いが何とも言えず食欲を掻き立てる。たまに祖母の許可がある時はお釣りで駄菓子を買って食べながら待った。お気に入りはきな粉棒、あのフニャっとした食感が大好きだった。
 出来上がったそば飯を鍋に入れて
「気ぃ付けて帰りや。転けたらあかんでー。」
と笑顔で送り出してくれる梅田のおっちゃん。持ち帰ったそば飯を食べながら吉本新喜劇やらルパンやらシティーハンターやら好きなテレビを観ながら過ごす。小学生の私には日常のご褒美だったし、梅田のおっちゃんのそば飯は特別なご馳走だった。
 その梅田のおっちゃんの店は今はもうない。1995年阪神淡路大震災で潰れてしまったのだ。私の住んでいた地区は火災は免れたが古い家屋が多く全壊、半壊など家屋の被害が大きい地区だった。我が家も全壊で地震の数ヶ月前に外壁の塗装をしたばかりの真新しい白い壁は無惨にもひび割れ崩れ落ちていた。その後区画整理で土地の立退、移動が行われ我が家や梅田のおっちゃんの店があったところには大きな市営住宅と公園が作られた。
 全く違う風景になったそこは、今見に行っても過去の思い出を懐かしく辿ることも難しい。何とか曖昧な記憶と自分で書き換えてしまっているかもしれない思い出しか頼るものがない。今も市営住宅には沢山の人が住んでいて、沢山の新しい生活があって、沢山の思い出を蓄えていっている。でもその生活や思い出の下にある私の思い出、生まれ育った場所に私は帰ることはもう出来ないんだなと思うと何だかやるせなくなることがある。
 そしてあの梅田のおっちゃんのそば飯ももう2度と食べることは出来ない。記憶の中のあの味を反芻しながら、どこぞやのお好み焼き屋でそば飯を食べ、
「美味しいけどなぁ…何かちゃうねんよなぁ。」
と心の中でぼやきながら、これからもずっと梅田のおっちゃんを思い出すのだろう。

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