「神戸」③ N小学校
N小学校、私が通っていたところだ。1学年2クラスで3クラスある年は今年は多いねと少し騒つくくらいの生徒数の少ない学校だった。とは言え、街の外れにある訳でもなく田舎で人が少ないと言う訳でもない。多分校区が狭いのだと思う。
そもそも近隣には所謂マンモス校と呼ばれる規模の大きな小学校が何ヶ所かある。小学校が設立されたのは昭和45年。第1次ベビーブームを経て昭和42年に人口1億人を突破し、以降第2次ベビーブームと言う流れの中で抱え切れなくなった児童数を近隣3校から校区を1部切り取る形で再編し作られたのがN小学校だと聞いたことがある。そのため他の小学校に比べると生徒数が少なく、小規模にも関わらずそもそも別の校区を切り取りくっ付けているため中学校進学の際は切り取られる前の小学校の校区で定められた進学先が適応されるのか3つの中学校にバラバラにならなければならなかった。1学年70人ほどが3分割されるため1つの中学校には多くて20名程度。私が進んだ中学校は学年7クラスだったが同じ小学校出身者はクラスに1人いたか?くらいの感じだったように思う。はっきりとは覚えていないが。
そんな感じの小学校だったが私は好きだった。放課後もよく友達と遊具で遊んだし、当時は土日でも校庭は開放されていて小さなプレハブ小屋にボールやラケットが置かれていて当番のおっちゃんやおばちゃんに声をかけ貸し出しノートに記入すれば借りて遊ぶことが出来た。校庭には琵琶と柘榴の木もあり、実りの時期になれば登って実を採りおやつに食べたりもした。「落ちんように気をつけや」くらいで叱られることもなく、例え落ちて怪我をしても家族からは「鈍臭いあんたが悪い」で済んだ時代だった。
そんな当時、私が担任として当たった先生は概ね「当たり」の先生だった。失礼な言い方は承知しているが、よく学年が上がると新しい担任が発表され誰ともなく「今年は当たりやな」「今年はあかんわ」と言った声が児童、保護者から上がっていた。私は「あかん」先生に当たったことがなく、当時は「へー、あの先生あかんのかー」くらいにしか思っていなかった。
ただ先生にまつわるモヤモヤする記憶が1つだけある。5年生の時だ。おそらく当時30歳くらいの男性の先生で、どちらかと言うと体育教師的な少し圧のある雰囲気の先生だった。ルールにはかなり厳しかった。生徒の中には嫌いだと言う子もそれなりにいたが、私は嫌いと言う感情までは至らなかった。
そんなある日、事件は起きた。体育の授業中に生徒たちが先生の指示を聞いてすぐにその通りに動かずに少しダラダラとしていた。すると突然先生がかつてないほど激昂し、大声で怒鳴り散らして職員室に帰って行った。私たちは茫然として、
「あれなんや?」
「いや、知らんて。めちゃくちゃ怒ってるやん。」
「いやいや、どうすんの?あれは多分帰ってけぇへんで。マジギレやったやん。」
「え、謝りに行く?その方がえぇんちゃうか?」
「雨降ってきたし、とりあえず一回教室戻ろうか」
とりあえず教室に戻り、話し合いの結果職員室に先生を〝迎えに行く”ことにした。
教室のある棟と職員室のある棟は別棟になっており、連絡通路もなかった。辿り着くためには校庭を歩くしかない。小雨も降っている。傘をさすかどうかを話し合った。結果、傘はなしでと言うことになった。その方が更なる怒りを買うことがないだろう、謝るなら傘はない方が意が伝わるだろう。子供ながらにちゃんと外から自分がどう見えるのか、見せたいようにするには、あの先生に対してはどうするのが最適解か、皆感覚でわかっていた。そうして小雨の中をぞろぞろと葬列かのような重たい空気を濡れた肩に背負いながら歩いて職員室に向かった。
「先生、ごめんなさい」
「もうしません」
湿った髪で冷たくなった頭を下げ、口々に謝罪の言葉を言う。職員室の入り口で腕を組んで仁王立ちした先生は鬼のような顔をして黙っていた。そこからしばらくごめんなさいの輪唱をして、ようやく
「わかったか?ちゃんと言うことは聞きなさい」
と許され教室に戻って授業は再開された。
けど一体何が「わかったか?」なんだろうか?当時の私たちは言うことを聞かなかった自分も悪いとは思いながらも、それ以上に「この先生はとにかくひたすら謝ると言う対応が正解なんだな。例え違和感があったとしても言うことに逆らってはいけないんだな。面倒なことになる」と言うことがわかった。
その先生は2年連続担任になったが、この学びに従いとにかくキビキビと指示に従い、何があればすぐ様謝ることを、習慣にしたおかげか事件の再来もなく過ごせたように思う。
これは私の生まれた地域に限ったことではないと思う。どこにでもあるありふれた1990年代の小学校の、小学生の6年間の一幕に過ぎないと思う。
けれど、当時その地域が世界の全てだった小学生の「わたし」にとってはその世界での生存に関わる大事件であり、腹落ちしないが抗うことも出来ない、絶対的な支配と息苦しさがあったように思う。
そして自分が生きる地域、世界に大きな違和感を感じた初めての経験だったのかもしれない。