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私のおばあちゃんたちの話②
昨日の続きです。
芳子さんの話。
アメリカに渡った両親を追って一人移民船に乗った、9歳の少女。それが私の曾祖母だ。名前は「ヨシ」だと聞いている。しかし、「ヨシ」の写真だというこの一枚には、裏に「芳子」と書いてある。
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だからここでは「芳子さん」と呼ぼう。
ちなみに私のペンネームは「芳生(よしき)」だが、決めたときに彼女のことはまったく意識していなかった。漢字が同じなのも偶然である。
(が、偶然だと思っていたことが実は必然だった、ということはしばしば起こる。亡くなった祖母曰く、私は芳子さんに話し方やら佇まいやらがそっくりなのだそうだ。)
9歳の時にアメリカへ渡り、現地の学校へ通い高校まで卒業したという芳子さん。忠四郎とおチョウさんが帰国を決めたのは彼女が「日本に帰りたい」と言ったから、と長年聞いていたのだが、成長した彼女が帰国した日本は、決してあたたかい場所ではなかった。
帰国した彼女が結婚したのは、父・忠四郎の親友の息子である。優秀な若者だったようで、東京に出て公務員になることが決まっていた。東京で立身出世を目指す若者に、アメリカ育ちで英語が堪能な芳子さんはぴったりだった。芳子さんにとっても、閉鎖的な集落よりも先進的な東京の暮らしのほうが合っていたのだと思われる。
住居を構えたのは新宿の富久町。経済的にも安定しており、6人の子どもに恵まれた。当時の写真がこれ。
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「優しくてお洒落な人だったよ。洋装で銀座を歩いたりすると、すれ違う人がよく振り返ってたよ」
と話してくれたのは、彼女の末の息子である。父親が庭師だったこともあって、芳子さんは植物が好きだった。庭にはいつもアメリカで暮らしていた家のそれと同じように、手入れをしていろいろな花を咲かせていた。
しかし戦争が始まって、生活は日毎に息苦しくなっていく。9歳から18歳までをアメリカで過ごし、アメリカの公教育を受けてきた芳子さんにとって、既に日本語は「母語」ではなかったようだ。
「私たちの学校からの連絡とか、お父さんの上司へのご挨拶とか、ご近所の人とのやりとりとか、日本語がよくわからなくて苦労していたから、よく私が通訳をしてあげてた」
とは、長女(私の祖母)の談。
こんなこともあった。
ある正月、夫の上司の家に家族で年始のご挨拶に行くことになったが、当時の日本の文化に不慣れな芳子さんはどのような服装で行けばよいのかわからない。だから同僚の奥さんにたずねた。すると「おめでたい日ですから赤い訪問着がよろしいでしょう」と言われた。真に受けて赤い着物で出かけたら、集まった他の奥さんたちはみんな黒留袖だった。
……いやいやいや、ほんとかい?これも話してくれたのは私の祖母だが、ちょっと信じがたい意地悪である。
状況はどんどん悪くなる。夫と長男が出征。家に残されたのが芳子さんと子どもたちだけになると、芳子さんが咲かせた花々を、通りすがりの人たちが踏みつけたり引っこ抜いて捨てていったりするようになった。
ある時は、突然憲兵が二人家の中に上がり込んできて、洋風に整えられた室内をじっと見回した後、「この非国民!」と怒鳴ってテーブルの上の花瓶を花ごと叩き落とした。
この頃、芳子さんはまだ幼かった末の息子を連れて、よく海の見えるところに出かけていたそうだ。海の向こうを見つめながら、長いこと泣いていた。
心労と悪くなる一方の食糧事情とで、芳子さんは体調を崩して寝込むことが多くなった。それでも子どもたちに支えられながらどうにか暮らしていたのだが、とうとう東京大空襲で家が焼けてしまう。夫も長男も不在のまま、子どもたちを連れて両親のいる福島の集落に疎開。戦争が終わり、夫も長男も幸い無事に戻ってきたが、すっかり弱ってしまった芳子さんの身体も心も、回復することはなかった。
芳子さんは東京にもアメリカにも戻ることのないまま、46歳でその短い生涯を閉じる。
私の祖母が亡くなった時、芳子さんの末の息子である叔祖父(おおおじ)から、祖母もおそらく知らなかったであろう話をいくつか聞いた。彼女が海を見つめながら泣いているのを隣で見ていたのは、おそらく彼だけである。
「(芳子さんは)ずっとアメリカで育ったでしょう。日本に帰る前まで、向こうに恋人がいたらしいんだよ、アメリカ人の。もちろん私たちは誰も会ったことがないけれどね。」
アメリカで両親に「日本に帰りたい」と告げたとき、芳子さんに一体何があったのだろう。そうして帰ってきた日本で、芳子さんは誰を思って涙を流していたのだろう。
今となっては、もう誰にもわからない。芳子さんは今も、故郷の集落で静かに眠っている。
③に続く。