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アラームのなる三分前

日ごと夜明けが早くなり、空が白々と明るんでくる頃、日が登るのを待ちきれないかのように小鳥たちがさえずりをはじめるのを意識の遠くの方で僕は感じる。

暗転していた夢の世界から意識が舞い戻ってくるような覚醒を受け止めつつ、起き上がるまでの数秒間の微睡をゆっくりと反芻してから、僕は枕元のiPhoneで時間を確認する。
アラームの鳴る三分前。だいたいいつもこうだ。

纏っているものを全て放り込んだ洗濯機を回し、ヒリヒリするくらいに温度を高めたシャワーで身体の表面に感覚を呼び覚ます。覚醒の手助けというよりアイデアを引き出す儀式のようなものだ。今日を安寧に過ごす一助となる大切なアイデアだ。部屋に戻ってコーヒーを淹れる前に音楽をかける。アンプを通してJBLの古いスピーカーから発せられるブラッドメルドーの重めの旋律がフローリングを這う。

タンパク質と糖質摂取を目的に食事を済ませ、テーパードの効いたパンツにオールデンのVチップを合わせる。革のコンディションは今日も良好だ。

イチ

サン

玄関を開ける前に三つ数える。
今日一日を無事に乗り切るのように、心地良くここに帰って来れるように自分自身にまじないをかける。

さあ、いこう

腰は立てて、臍を意識して歩幅は大きく、足の裏から膝、股関節そして腰とそれぞれの部位で地面からの反力を感じながら歩く。イヤホンからはミシェルペトルチアーニの軽やかなピアノが流れている。

今朝は幾分まだ冷えるが気忙しくツバメが飛び交う姿もみえて、真新しい制服が全然馴染んでいない中高生がどこか初々しくって、新しい季節の巡りを僕は五感を通して感じている。

ペトルチアーニの奏でる旋律は飛ぶように軽い。

今日からチームに何人かの新しいメンバーが加わる。大丈夫だ。やっていける。心の中で僕は僕に言い聞かせるようにそう呟いて、意識をしながら大きく息を吸う。

みんな、おは…よ…う

ハッっと目が覚める。
あっ!この感じはマズイ。夢の中で発した自分の声で目が覚めた。

慌ててiPhoneを確認する。おい!おまえのアラームはちゃんと鳴ったのか!と壁に投げつけそうになる。

とにかくシャワーへ。洗濯は…もう今日は諦めよう。いや、今日も、だ。一瞬の間、熱湯に近い湯を身体にぶつけて、髪も乾かさないまま、メッセンジャーバッグに荷物を放り込み、ピストバイクで飛び出す。駅の駐輪場に自転車を投げ出し、ホームに駆け上がると同時にやってくる電車に滑り込む。

ふぅと一呼吸するだけの余裕があるだけヨシとしたいが、食べそびれた朝食、回しそびれた洗濯機、かけそびれた掃除機…乱れた生活に打ちひしがれる僕の心を支えてくれるのは耳から流れる“クラシFM”。混沌と怠惰の極みと云うべき僕と対極にある穏やかなクラシさんの声に折目正しい丁寧な所作を思い描き、僕は少しだけ姿勢を正す。
背筋が伸びる。
川を渡る車窓からは花を散らせた桜の木に力強い緑がモクモクと茂っている。
ねぇ、クラシさん、春が通り過ぎましたね。
夜中に降った雨は上がって今日は日差しが強そうですね、紫外線対策、されてますか?僕はブツブツと頭の中のクラシさんに問いかける。
理想として思い描く僕の丁寧な毎日はクラシさんに委ねます。いいですよね、許してくれますよね。ねぇ、クラシさん…そうやって声の主に僕は胸の奥で許しを乞う。

コソコソとオフィスに駆け込みつつ、僕は小さく声を発する。おは…よ…う

ハッ、自分が発する声が微睡から僕を引き戻す。枕元のiPhoneで時間を確認する。
アラームの鳴る三分前。
だいたいいつもこうだ         (おわり)

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〈あとがき〉
これは大人気Podcast番組“クラシFM”の
大人気コーナー“クラシのノート”に宛てたお便りです。

クラシさんの落ち着いた声と穏やかな語り口は、いつ、誰が聞いても耳にも心にも優しくて、とっても素敵な番組です。
大人の余白のあるクラシさんの日々は窮屈で地味な私の日常と対極にあるようで対岸を眺めるような気持ちでそのまま文章に起こしています。

理想の毎日と現実の毎日、この対比を入れ子構造に描いています。私の欲しかったJBLのアンティークスピーカー、何度もセレクトショップに通って眺めてたオールデンのVチップ。これに乗じてありたかった毎日を消化させています。ただ、ブラッドメルドーは若い頃から好きで、一度、来日公演も聴きに行きました。

文章で音楽は鳴りませんがかかっているのはこのアルバム。よく聴きました。

音声配信での出会いはとても優しく、日々に小さな変化をもたらします。日常をがらりと変えることはままならなくても、また次が聴きたい、そんな気持ちが私の今を支えてくれています。