団塊の世代である父は、いわゆるブルーカラーで、九州の片田舎から中学を卒業後、集団就職で大阪に出てきたそうです。7人兄弟の五番目。働き手が欲しい田舎の農家で、下の子達は一刻も早く社会へ出す。そんな土地柄で、そんな時代でした。
父はとにかく無口で、私は父と会話らしい会話をした記憶がありません。とはいえ母が言うには父は子煩悩であったらしく、確かに古い写真にはいつもベッタリと父にくっついている私の姿が写っています。スポーツ万能だった父は小学校や地区の運動会のリレーで、足のもつれるお父さん連中をぶっちぎり、野球大会では華麗なフィールディングに加えて打って走っての大活躍。周りと違って父のネクタイ姿などを見た事はありませんが、私の中のカッコいいの基準はいつも父なのでした。
私は高校生となり、思春期を経て元々なかった父との会話は更に減り、部活動に時間と体力の全てを捧げ、私は高三の夏の終わり頃から、やっと受験勉強とやらを始めます。大学入試センター試験が終わり、取るに足らない結果に落ち込む暇なく私立大学の入試が始まる頃、私はちょっと今年は間に合わないぞ…と焦ります。家計にそれほど余裕がないだろうと思っていたからです。私は父に「現役は難しいかも」と泣き言を伝えました。父は「お前の好きなようにしたらええ。お金の心配はするな。それが親や。」とだけ言ってさっさと寝床に入りました。私は感謝の気持ちで一人泣きました。
運良く滑り込んだ大学に関して部活の友人達から「仮面浪人するん?」と聞かれましたがそんな気は微塵もなくて、私は目一杯の学生生活を送ります。そんな中、一度、父が休日に用事が出来て仕事場に行くというので、私はそれについて行きました。父の仕事場が大阪西淀川区の海辺の大きな工場であった事をその時初めて知りました。そこの守衛のおっちゃんが私に声をかけます。
「あんたが息子さんか!えらい立派やんか。あんな、ゆーとくで。あんたのお父さんはすごい。ここの仕事はキツい、ホンマにキツい。でもな、あんたのお父さんはしんどいとは言わん。ホンマによく働く。あのな、ボク。若いウチは勉強し。ほんでええ仕事みつけるんやで」
それが聞こえていたのかいないのかは知りませんが、それでも何も言わない父なのでした。
私は、学生時代に思いっきり学生をしようと固く誓い、同じ学科の中で最も多くの単位数を取り、旅にバイトに必死でしたが、背中を押していたのはこの時のこの言葉だったと今でも思います。
携帯電話がない学生時代、友人からの誘いは家への電話のみでした。父が電話を取ると友人は私が出たのか区別がつかなかったそうです。
そう、私の声はどうやら父とそっくりらしいのです。
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お仕置き三輪車さんのPodcast『お仕置き三輪車のエレクトリカルドライブ』へのお便りです。
私が何か困難なことがあっても父の息子であるという事実だけでなんとかなる、そんな気がするから親子というのは不思議なもの。
お仕置き三輪車さんの朴訥とした朗読がいい味で、文面以上の心地良い雰囲気が溢れます。