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IとNとH

ご婚約ですか?の声に思わずビクッと縮こまる。

女性店員に声をかけられるのが怖くて逃げ回るようにショーケースを覗いていたつもりだったのに、明らかに場違いな俺の姿は店員の目にさぞや滑稽に映ったことだろう。あ、いえ、と声にもならない声を発して、そそくさと店を後にする。

これまで、時間と体力の全てを野球に捧げて来た。代打ではあったが甲子園の土は踏んだし、学生野球でも雑誌のカラーページには載った。とはいえ、その程度、なのだ。天才が天才を喰いあうシンプルで残酷な世界において、社会人リーグに属してはいるが、もう、結果は出ていると言ってもいい。認めたくはないがこれが現実だ。友人Nとのキャッチボールから始まった野球という旅路はもうとっくに終着駅を通り過ぎている。

幼馴染のHはそんな俺の姿をずっと側で見ている。小学生の頃は気付けば隣にいるHを意識したことは無かったが、高校受験を前にして一度告白をされた。冗談はよしてくれ、と俺は返事をしないまま結局大人になっている。彼女の家業の不動産屋は手堅い経営で業績を伸ばし、今ではちょっとしたディベロッパーと呼んでもいいくらい手を広げていて、機転が効いて人付き合いの上手い彼女はそこで手腕を奮っている。

先日、友人Nから飲みに誘われた。
「いつまでも白球を追いかけてるお前が羨ましいよ。俺はそこまで情熱を傾けるものに出会えなかった。お前の活躍は俺の活躍のように思えて嬉しいんだ…。でも、だ。聞いてくれ。」

口止めをされているがもういいだろ。と、幾分酔ったNが改まる。

「俺はHから相談を受けている。ずっとだよ。彼女は待ってるんだよ、お前の返事を。ウソのようなホントの話だ。球を持ったまま投げ返さないだなんて、それはないだろう。返してやれよ。そしてしっかり気持ちを置いてくるんだ。今度はお前から押し返せ。押して、置くんだ。いいな。いいよな。これでいいんだよな。」

もし、その気持ちがあるんなら、最後にキャッチボールをしよう、俺が幕を引いてやる。来週、あの河原で、だ。Nはそう言い残して千鳥足で帰った。


押して、置く、押して、置く、
押し、置く…
指輪の入ったケースを握りしめ、そう呟いていると土手の向こうからNが姿を現した。

嬉しそうな顔でNが大声を張り上げる
おーい、イソノ!野球しようぜ!

俺はポケットにしまったケースの感触を確かめつつ、慎重に、それでいて力強くボールを握りしめた。

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『お仕置き三輪車のエレクトリカルドライブ』の“語源教えてよ”のコーナーに送った
“おしおき”の語源
です。
ちょうど、角田光代『おまえじゃなきゃだめなんだ』を読んでいて、ジュエリーと国民的昭和アニメとを掛け合わせてみました。お仕置き三輪車さんの読みっぷりが最高に面白いです。


それと実は、大好きなPodcast番組
“スカシウマラジオ”
の『ひとこと妄想サスペンス』回の概要欄にある短編、アスパラガス『風雪天』に触発されて遠回りな文章を書きたかったのです。
とはいえ書けば書くほど、やまちさんの文才に恐れ入る結果となりました。
スカらじ、ホントに面白い