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こども落語教室⑫ 堀川遊覧船

松江堀川

 3月の終わりごろ、教室生の家から「花見に来ませんか」というお誘いがあった。松江名物の一つが国宝松江城をぐるっと囲んでいる堀川だが、その川に面してその家はあり、石垣で区切られた際にある山桜の古木が満開を迎えているというのだ。ぼくがおじゃましたときは散り始めで、風が吹くと裏庭を覆うように作られたウッドデッキや川面の上を白い花びらが惜しげも無く降り注ぎ、風下へと流れていた。

堀川今昔

 今はもうないのだが、ぼくが通った小学校は北堀小学校といい、その名の通り堀川から100メートルばかり北に行ったところにあった。普通に考えたら、至近距離にある川だから、当時の小学生にとって格好の遊び場であるはずなのだが、景色としてあるばかりであまり接近することはなかった。理由は、汚かったからである。水彩絵の具の緑に黒を混ぜ、水で薄めることなく流し込んだような色と質感は、いかに無知の小学生といえど、川に手足を浸けてみる気など起こさせなかった。泥をさらうと貝が取れると聞きつけて、橋の欄干にランドセルを置いて、何度かドブ臭い川面に下りて掬ってみた。確かに異様に肥え太って黒光りしているカラスガイなどが取れたが、だれもが気味悪がって、そのまま放り投げてしまいになった。

 北堀小学校が閉校になって、ずっと北の新設校に移ってしまうと、すっかり堀川とも疎遠になってしまうのだが、皮肉にもその頃から浄化事業が始まって、ヘドロも浚渫され、堀川はきれいになっていった。そして四半世紀を経て、ついに遊覧船が運航されるに至る。運航が始まって30年近くになるが、もうすっかり松江観光のシンボルになっていて、大勢の観光客を毎日楽しませている。

堀川遊覧船

 去年、学生時代のサークルの後輩が堀川遊覧船の船頭になった。教員を定年退職して、ぼく同様しばらくぶらぶらしているうちに船頭募集のポスターを目にしてその気になった。船舶免許を取得し、決して短くない研修を受け、4か月を経て晴れて船頭になったときようやく親しい者たちに連絡をよこしたが、最も想定外のセカンドライフに突入したというので、仲間内ではちょっとした騒ぎになった。

 さて、春の日差しと桜の花びらでまぶしい川面に向かってお茶など飲んでいると、目の前を堀川遊覧船がのんびりと通り過ぎていった。乗船客が興味深げにこちらを見ているので、「いい天気でよかったですね」と声をかけると「ええ、ほんとうに」と誰かが答え、乗客全員がにっこりと微笑んだ。まるで近所の会話だ。友人が船頭になったのも、落語教室生が堀川沿いに住んでいるのも何かの縁。このウッドデッキから、直接堀川遊覧船の乗客に落語を聞かせられるのではないか、とひらめいた。江戸時代の風情を今に伝える掘割、編み笠をかぶった船頭、和船に見えなくもない遊覧船、これだけ落語にふさわしい道具立てもめったになかろう。

松江堀川遊覧船

堀川遊覧船ゲリラ落語

 後輩の船頭に話を聞いてみると、ほかにも好条件がいくつも重なっていることがわかった。第一に米子川を古刹普門院に北上する外堀ルートは、めぼしい史跡のない閑処にあたり、落語に乗客の注意を向けさせることが可能であること。第二に、時間調整にも使うので、船によってはスピードを緩めたり、停めたりもできること。後輩は、そのアイデアはいけるかもしれない、お客さんも喜ぶと思う、と言った。こうなるとやってみたくてたまらず、後輩が定時運行の船頭となり、かつ教室生F子が帰宅している頃合いを選び、決行日時を決めた。5月某日の午後4時30分から40分の間、件の遊覧船は赤と青のプレートを舳先に掲げて通過する。

 午後4時に教室生宅に行くと、F子はすでに白に赤や黄色の花を散らした浴衣で待っていた。ウッドデッキの最も川面に近いところに座布団を敷き、その左にめくり台を置いて、F子の名ビラを川に向けた。

 その昔、武家と町人の住まいを画した外堀は、内堀よりもぐっと川幅が狭く、F子のところから見ると手の届きそうな先に対岸の家が並ぶ。左にヤマザクラの古木、右にも大木が川に向かって傾いでおり、視界はそこでさえぎらえるから、ちょうど船は上手揚げ幕から登場し下手の幕へと引けるかっこうになる。

 問題は、船が入って出るまでの時間に一席に仕上げることができるか、という点だが、こればかりはやってみないと分からない。

 エンジン音が近づいたら、出囃子をかける。揚げ幕から舳先が見えたら止める。それを合図に「小咄をします」と言って、80字あまりを語る。お辞儀をして終わる。当たり前だが、船と関係なしにやるぶんには、F子は難なくこなす。

 計画を知る船頭は、後輩だけ。しかし、それを待ってただ一回に賭けてもうまくいくとはとうてい思えない。ええい、ままよ、と通る船通る船、やっちゃえということになった。F子がすごいのは、まったく躊躇しないことだ。タイミングは早かったり、遅かったり、乗客の表情も怪訝から無表情、笑顔まで、実に振れ幅が大きい。一回一回修正を繰り返し、後輩船頭がスピードを加減すれば、どうにか一席が成立しそうな見通しが立った。決行時刻がせまり、赤と青のプレートが現れるのをじっと待つ。

 耳を澄ませていたら、エンジン音が聞こえ、それが徐々に大きくなってきた。同時に、対岸から、

「来た。赤と青!」

と甲高い声が響く。声の主は、アシスタントを買って出てくれた対岸の小学3年生の女児である。お囃子を聞きつけて川岸に出てきたので、稽古がてらF子が小咄をいくつか聞かせたら、おもしろがって互いのことをあれこれ話すようになった。川を挟んでの日常会話は経験がないので、F子もぼくも高揚感があった。江戸時代もこんなふうにしゃべっていたのだろうか。いくら川の向こうとこちらで身分が異なったとしても、むしろその分だけ、会話を求める気持ちは強かっただろう。道を挟むよりも垣根が低い気がするのは、水の効能かもしれない。

 その子の報告の通り、赤と青が視認できたところでお囃子を流す。スピードが緩んだのを見計らって、F子は声高らかに小咄を語った。稽古を積んだ甲斐あって、申し分ない出来であったが、船の周囲の様子が何やらおかしい。まるで船頭とデッキで見守る私たちの戸惑いが川面をすべる船の周りに渦巻いているかのように。違和の正体はすぐにわかった。乗客は、たった一人。しかも外国人だったのである。後に、

「落語やってるから聞いてくれ、と説明しようとしたんですが、いかんせん私の英語力ではどうしようもなくて」

と、船頭は釈明したのだが、仮に彼が英語が堪能であったとしても、小咄の中身はおろか、なぜ民族衣装をまとった女の子が大声でしゃべっていたのか、船客にはさっぱり理解できなかったにちがいない。幾分身体をこわばらせて過ぎてゆくアメリカ人(これも後に聞いた)を私たちはあっけにとられて見送ったのだった。

 保護者も私も「最高のネタができた」「こんなおもしろい結末が待っていたなんて」と口々にはやし立てては笑ったものだから、F子も笑いながら、「ショックでした」と言った。

 二日後さらに一週間後と、後輩船頭と示し合わせてのそれとゲリラ落語とを重ねた。船の速度や船内の状況は、一艘一艘みなちがう。こちらが意図したとおりにはまず、いかない。それでも、そのジタバタをF子が楽しんでいるのと、うまくはまったときの船客や船頭の破顔一笑に救われる。

 船上の人たちは、その多くが松江を味わいに来た一度限りの観光客。突然降りかかってきた小咄を堀川ものがたりの栞として心に留めてくれたらうれしい。

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