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独身アラサー男 イギリス移住生活🇬🇧   「なぜ海外?なぜイギリス?」  中巻

はじめに

こんにちは。イギリス移住した、独身アラサー男です。
今回の投稿では、怪しげなシンガポールインターンを経て、今までの人生感を全部ひっくり返され、突如オーストラリアワーホリを決めた男の物語を綴っていこうと思います。最後までお付き合いください…
※上巻を読んでない方、ここから読み出したら意味わからないと思いますので、ぜひこちらも読んでいただけると嬉しいです。


オーストラリア ワーキングホリデー

オーストラリアワーホリについて書き始める前に、このワーホリの目標と学んだ3つのことを先に書いておきます。
【目標】
・英語への恐怖心を無くし、海外の友達を作る!
・初めての一人暮らしでもあるため、まずは1年間海外で生き抜くこと
・とりあえず機会があれば、食わず嫌いをせずに何にでも挑戦してみる
【学び】
1. 逆境におかれた時の方が行動できる
2. 海外の生活って自由だな
3. やっぱり人との出会いって素敵だな

オペラハウス前で年越し

シドニー編

すごい軽いノリで、大学を休学してオーストラリアワーホリを決めた、みたいな流れになってますが、ここに来るまでにちゃんと両親に人生初のプレゼン(なぜワーホリしたいの、ワーホリ後どのような自分になっていたいのか etc..)、コツコツ貯めた貯金を全て叩いていることは内緒です笑

なぜまたオーストラリアにしたのかは、すごく単純。初めてのワーホリならオーストラリアと言われるくらいすごく人気だったこと、治安も悪くなく、四季もあり日本人には生活しやすい国だったことです。そうは言っても、私の英語力は上巻でも触れた通りとても残念なものです。このまま英語圏の国に行ってもおしまいだなと思った私は、オーストラリア前に英語に慣れてから行こうと考えました。それがフィリピン留学です。3ヶ月間、フィリピンの語学学校にてみっちり英語を勉強し、当初の私からしたら多少マシな会話ができるまでに成長できました。そして、自分は喋れるんだ!というちょっとの自信を持って、いざオーストラリアへ!
いや〜人生そんなに甘くない… 英語って難しい…(そりゃそうだ)
フィリピンの先生は、私に合わせてゆっくりと喋ってくれていたんだとオーストラリア行って実感しましたね。ほんと、何言ってわからない笑
最初のホストファミリーの「hou was your day?」にすら「はい?」でした笑
オーストラリアの訛りもすごいと聞いてはいましたが、噂以上。メンタルやられかけましたね。
オーストラリアでも、最初の1ヶ月は語学学校に通っていましたが、クラスメイトの大半は欧州からか南米出身でした。そして何よりも驚いたのが、めちゃくちゃ英語喋れるんですよね。なんで留学しに来たのってくらい。そんな中、先生の言っていることも怪しかった私はクラスのドベを常に突っ走っていました。泣きそうになったな〜笑
ただ、この逆境がやる気スイッチをオンにしてくれました。常に英語を話す環境にいようと決め、英語がペラペラなクラスメイトや、彼らの友人に食らいついていきました。もちろん学校には日本人もいましたが、ここで日本人と喋ったら負けだと思った私、日本人をフル無視しました。笑
語学学校卒業後に仲良くなった日本人に、「いや〜あの時尖ってたよね〜」と言われたことは今となってはいい思い出です。その甲斐もあり、多少ですがクラスメイト達とは会話できるレベルになりました。クラスメイト達と会話してみて驚いたことが、当時の私の年齢と同等、若しくは若い年齢なのにも関わらず、すでに将来を見据えて行動をとっている子ばかりだったことです。あるスイス人は、自国に帰ったらもう一度大学に言って医学について学びたいと言っていたり、(え、なにそれすご笑)ある18歳のチリ人の留学理由は海外に住んでみたかったからと言っていました。(18歳の頃の私なんて、高校生の頃だし、海外に行こうなんで微塵も考えたことなかったわ!笑)
そんなこんなで彼らからもすごい刺激をもらった私でしたが、まずは兎にも角にも英語だなと実感したのもまた事実です。

卒業後は日本食レストランとカフェの2つでバイトを始めました。日本食レストランの時はまだ良かったんですが、カフェは英語力が必須でした。メニューも読めない、お客さんのオーダーも分からない。コーヒーの種類も分からない。毎日オーナーに怒られてました。(よくクビにされなかった笑)なんとか必死になって働いて、ようやく店にも慣れてきたある日…事件が…

突然奴らがやってきましたね〜 そう、コロナウイルス

街はロックダウン、お店は2つともクローズ。オーナーから言われた言葉が、「明日から来なくていいよ」でした笑
初めて言われた言葉に驚きを隠せませんでしたが、店が開けないのに雇っていてもしょうがない。そして何より一番心配しないといけないのが、私の今後の生活です笑
当時の家賃の支払いが週ごとでした。毎週、家賃の支払いをしないといけないのに、収入ゼロ。これは生きていけない。周りの友達は皆んな国にかえる選択肢をとってましたが、私はそこは『やらずに後悔よりやって後悔』。一旦もがいてみるかとオーストラリアに残ることを選択しました。そこで、今できる仕事を探してみたところ、ファームジョブ(農業)があることを知りました。生活に必須な野菜や果物を育てているファームは、コロナなど関係なく、毎日仕事をする必要があるんです。それを知った私、元々田舎育ちでおじいちゃんの家の畑仕事もよく手伝っていたこともあり、何の抵抗もなく応募していました。応募してすぐ、あるファームのスタッフから働いてほしいとの連絡をいただき、すぐに移動を決めます。
ちなみに私が最初にいたところがシドニーという都市でしたが、このファームがある場所がブリスベンという違う都市。そしてオーストラリアはめちゃくちゃでかい国なので、都市移動は飛行機が一般的となります。連絡をもらってすぐに移動しなければいけなかったので、ほぼ夜逃げレベルのスピードで荷物をまとめ、ブリスベンへと向かいました。

ブリスベン編

ファームジョブはオーストラリアのワーホリを調べたことがある方にとっては、かなり有名な仕事なのではないでしょうか。理由はこのような感じだと思います。【ファームジョブが有名な理由】
・稼げるから!
・3ヶ月以上働けばセカンドビザに申請可能だから!

ちなみに私は、そんなことを考えている余裕はありませんでした。とりあえず、仕事くれ!って感じでしたね笑
私が選んだのが、いちごファームでした。これがかなりの重労働。毎日、早朝6時からファームに行き、いちごの苗植えから、雑草の除去、いちごの摘み取りまで、今思えば、いちごの成長過程を1からずっと見てましたね笑

“ここで小話”
ファームジョブのお給料は歩合制で、頑張った分だけ給料が貰える仕組みでした。私はどうせならたくさん稼いでやろうと、いちごのピッキング(摘み取り)の際、全力で働いていました。その結果、私も知らなかった才能が開花し、摘み取り量が常にファーマーの中でトップ3に入る(ここではTop Pickerと呼ばれてました笑)ことができました。全く必要のない才能です。いちご狩りの時に人より早くいちごが摘めるくらい…


ファームによく出没していた野生のカンガルーです笑

ファームジョブの良かったところが、シェアハウスも用意してくれたことです。もちろん住んでいる人たちは全員同じファームで働いている同僚で、一軒家を8人でシェアしておりました。日本人が私含め4人、韓国人1人、ドイツ人3人という組み合わせでした。同じ時間に起き、一緒に職場まで行き、同じ時間に帰ってきて、ご飯を食べる。こんな生活を送っていれば、出身など関係なくなりますね。皆んなでお酒を飲みながら一緒の部屋で映画を観たり、買い物に出かけたり、釣りに行ったり、家族のような存在でした。彼らはもちろんですが、これまでに出会ってきた友達が私にとって大切な宝物です。みんなに会いに色々な国を旅行しにいきたいな〜。

まとめ

このオーストラリアで大きな収穫は世界数カ国に友達ができたこと、英語で会話することに対して恐怖心が無くなったこと、海外の自由な生活が自分にも合っているなと知れたことです。しかし、大学を休学してワーホリに来ていた私。ビザの延長も考えましたが、それよりも大学卒業を優先しました。実際、あと1年伸ばしたところで自分の成長が見えなかった、悪い意味で海外に慣れてしまったこと、当初の目標を達成してしまい、次の目標が決まらなかったことが原因だと思います。もちろん、たくさんの友人もでき、達成感も感じてました。しかし、少しやり切れなかったモヤモヤ感が残ったこともまた事実です。そんなこんなで1年間のオーストラリアワーホリもあっという間に終わり、日本に帰ることになった私。次は日本でのサラリーマン生活について綴っていきます。
え、まだ続くの…書いてる本人が一番びっくりしてます笑
次の投稿でこの物語を完結させます…本当に…


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