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今こそ聴くべし!コメティック初期楽曲

はじめに

少し前、コメティックG.R.A.D.をプレイした。普段W.I.N.G.とS.T.E.P.以外はあまりやらないため苦労しながらも、何とかユニットメンバー三人全員分のストーリーを読むことができた。「なるほど、こうなったか」となるもの、「良い話だったな」と素直にしみじみするもの、「いや面白いけど、良いのかこれ…?私の楽しみ方は合ってるのか…?」と不安になるものなど、それぞれ楽しむことができた。

G.R.A.D.プレイに際して、コメティック全員の過去コミュを全て読み直した上で臨んだわけではない。そもそも、はるきはenza版のコミュを一通り読んでいるが、ルカ、羽那については未所持のカードも多い。そんな中で、コメティックがどのようなユニットで、それぞれがどのような立ち位置なのかを整理したくなった。もちろん所持しているカードやイベントコミュを読み直しても良いのだが、せっかくなので曲を振り返ってみたい。それによってメンバーそれぞれへの理解が深まれば万々歳であるし、考えた末に新しく得るものがなかったとしても、それはそれで構わない。

今回は初期三曲にフォーカスして考える。メンバーがそれぞれ一曲ずつセンターを担当しているため、今回の目的にもってこいだと感じたためだ。曲が増えてセンター曲がもう一巡したら、初期三曲と比較しながら再度考えてみたい。



コメティック初期三曲の特徴

これらの特徴は、先述した通りユニットメンバー三人がそれぞれ一曲ずつセンターを務めることだろう。これにより、共通するテーマがありながら、曲ごとに違った雰囲気を持っている。初期三曲に共通するテーマは、若者が抱えるモヤモヤや諦めといった、内に秘めたものではないかと感じる。これらをルカ、はるき、羽那それぞれの色を付けて出力するのが初期三曲と言えるだろう。今回はこの仮説を基に考えていきたい。

もっとも、これはメタ的な見方に過ぎず、作中でも作詞作曲者は別にいるのだろう。曲=センターを務めたアイドルの心情そのものとは限らないことは肝に銘じておきたい。


無自覚アプリオリ:コメティックの「怒り」

ルカがセンター。コメティックの一曲目でもある。一曲目と言えばそのユニットを象徴する曲として扱われることもあるため、これに乗っているのはルカのカラーのみではないかもしれない。ルカのパーソナリティはある程度描かれており、センター曲以上に自身を象徴するであろうソロ曲「神様は死んだ、って」も持っている。したがって、本曲は「コメティックにおけるルカ」の説明も兼ねて、ルカだけでなくコメティック全体のカラーも出ているように思える。

何様 今更 どうすりゃいいんだ

引用元:コメティック「無自覚アプリオリ」
作詞:出口遼(KEYTONE) 作曲:涼木シンジ(KEYTONE)

モヤモヤとした気持ちや諦めという共通テーマがある中で、時にそれを怒りを乗せてぶつけているように感じる。上記フレーズを含めて、ルカががなりやシャウトを行っている部分にそれが顕著に表れている。これはソロ曲や作中でのパフォーマンスの様子からも窺える通り、アグレッシブに感情を出すという一面を持つルカの特色と言えるだろう。本曲におけるこの特色は、ソロバージョンを聞き比べると更にはっきりしてくる。ルカVer.は随所に濁点が付いているような歌い方だが、はるきVer.と羽那Ver.はクリアな歌い方をしているのだ。どれも魅力的だが、本曲の元のニュアンスに近い歌い方をしているのは、三人の中だとルカであるように思える。

ただし、本曲はルカ一色というわけではなく、はるき、羽那の特色が出ているように思えるパートも少なくない。たとえばはるきパートを見てみると、一番での嘲笑するような歌詞や振付、二番での干支を早口で唱えるパートなど、後述する「くだらないや」を想起させる要素が見られる。やはりこの曲はルカだけでなく、コメティック全体のカラーを乗せているように思われる。

ルカのパーソナリティがある程度描かれていることや、本曲がコメティック全体の曲という一面を持つであろうことから、考察が短めになってしまった。今回はここまでにしておく。


くだらないや:コメティックの「毒」

はるきがセンター。コメティック初期楽曲においてルカが司るのが「怒り」ならば、はるきは「毒」であるように思われる。本曲の歌詞はチクチクと刺してくる言葉に満ちており、初めて聞いた時は当時イメージしていたはるきのパーソナリティから乖離しているように思えてギョッとした。だが、これがはるきの内面そのものを表現した曲ではなく、豊かな感受性や独特かつ優れた言語センスを持つはるきというフィルターを通してコメティック共通のテーマを出力したと考えると納得はできる。納得はできるのだが、今見てもやはり少しギョッとする。

そもそもタイトルからしてドキッとさせられる。嘲笑、諦観、そういったものの予感がストレートにやってくる。「下らない」ではなく平仮名で「くだらない」と表記するのは、なんとなくはるきらしさを感じるが、タイトルが全て平仮名で統一されていることによりインパクトが大きくなっている。最後に「や」が付いていることで柔らかさや心情の吐露を感じさせるが、「もういいや」「やってらんないや」というような独り言じみたニュアンスも感じる。そして歌詞を見ても、そんなタイトルに違わず、全体に渡って毒をまぶされた諦観が横たわっている。

一丁上がりだが?
ダイジョブそ?笑える

引用元:コメティック「くだらないや」
作詞:出口遼(KEYTONE) 作曲:篠崎あやと・橘亮祐

歌詞を見渡すと上記のように、やや大げさに言うと神経を逆なでするような言葉選びが目立つ。前者については、「オタク構文」を彷彿とさせる。(例.「ザコすぎなんだが?」「流石に可愛すぎなんだが?」)後者はいわゆる若者言葉で、「大丈夫そう?」の最後の一文字を省略したもの。これ自体は普通に使える言葉だが、「大丈夫」をカタカナにすることで煽り力が高まっている。

振付を見ても、下の画像のパートはあのルカすら笑顔を浮かべ、皮肉たっぷりに拍手をしている。ルカの後ろからはるき、羽那が左右に現れ、一緒に拍手をする様は見栄えが良く可愛らしいパートだが、これを見て「三人に祝われちゃった…!」と素直に嬉しくなる人はそんなにいないのではないだろうか。まずルカの表情は明らかに煽っている。有自覚アオリである。羽那の笑顔も心なしか目が虚ろで怖いし、そうなるとはるきの笑顔すら意味が違って見えてくる。

三人揃ってにっこり拍手

さらには、拍手を止めると同時に、全員の顔から笑顔が消える。全編こんな感じというわけでは無いのだが、振付にも毒を感じるのだ。

スン…


踊れ踊らにゃ損だってフィルターして

引用元:コメティック「くだらないや」
作詞:出口遼(KEYTONE) 作曲:篠崎あやと・橘亮祐

歌詞の話に戻ろう。上記の歌詞は「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」というような言い回しを基にしたフレーズだろう。「阿呆」と直接言及してこそいないが、それゆえに省略されたこの二文字が浮かび上がってくる。そして、省略された阿呆を含めると、本曲にはバカアホという二大悪口が揃っていることになる。だからどうというわけではないのだが、どちらも「お前はバカアホ!」と直接罵倒しているわけではなく、それらを間接的に使って毒を滲ませているあたりがこの曲らしい。

歌詞カードを見ると、漢字や英語などで書けば良いところをカタカナにしている箇所が妙に多い。先述した『ダイジョブそ?』もこれに含まれる。また、これらとは少し違うが、日本でもある程度メジャーな単語とは言えいきなり「無問題」という中国語を使っているのも印象的である。真正面から捉えていない、あっちこっちに飛び回りわざとふざけて真意をはぐらかすような印象を受ける。

嫌になっちゃうな 歪み発見だ
頭ん中 空っぽにして覗いても
馬鹿になっちゃうな 虚勢張ってんの
バレバレだって タッタラー
まあ くだらないや

引用元:コメティック「くだらないや」
作詞:出口遼(KEYTONE) 作曲:篠崎あやと・橘亮祐

サビでは一瞬の空白を挟み、『嫌になっちゃうなぁぁぁぁぁぁぁぁ』と、思い切り語尾を伸ばして心の丈を叫ぶ。だがそこで本音を洗いざらいぶちまけてくれるのかと思いきや、サビ後半では『タッタラー』とふざけたようなフレーズを挟み、『まあ くだらないや』でシメてしまう。本音の一端を見せてくれた上で「…まあいっか」とばかりに手を引っ込められたような気持ちが残る。

これは本当に言うまでもないことだが、「ルカが怒りならはるきは毒」などと書いたものの、はるきの性格が毒々しいわけでは決してない。目上の人間への言葉遣いは丁寧だし、同年代の子たちと話す時も的確な言葉選びをしながらもほんわかした雰囲気を感じさせる。思ったことを積極的に言語化しようとしてくれる姿勢には好感が持てるし、それでいてモヤモヤをそのまま剛速球でぶつけるのではなく、自分なりに何らかの咀嚼をしてから話してくれるのも嬉しい。末っ子ゆえか「お姉ちゃんっぽい」「しっかりしている」と言われると喜ぶところなどは可愛らしい…。何が言いたいかというと、重ねての主張になるがはるきの性格は毒々しくないのだ。本記事を読んで誤解する方はいないだろうが、念のため記載しておく。

ただ、感受性や言語センスに富み、かつアンテナを広く張っているはるきならば、わざと「毒」を出せるのではないだろうか。日常では毒を出さないし、内心で思うところがあったとしてもモヤモヤを昇華する手段を多数持っているだろうはるきだが、「若者の抱えるモヤモヤや諦め」というようなテーマを、はるきというフィルターに通した時、彼女の的確な言葉選びは「神経を逆なでする言い回し」に、優れた言語センスは「飛び回り、はぐらかすような言語感覚」に、豊かな感受性は「時に現れるストレートな叫びや諦観」に姿を変えるのではないだろうか。先述した通りこの曲をはるきが作ったわけではないだろうから、はるきのパーソナリティに深く関連しているというのはあくまでメタ的な見方に過ぎないのだが、仮にコメティックとしてのテーマを与えた上ではるきに曲を書かせると、実際このようなものが出てくる気がしなくもない。


平行線の美学:コメティックの「透明」

羽那がセンター。難しい曲である。何が難しいかというと、羽那のパーソナリティを私が深く把握していないため、羽那という補助線を引いて本曲を理解することがあまり上手くできないのである。

恥ずかしながらアイドルロードもあまり進んでいない

ルカの場合は「ここはルカのアグレッシブな一面とシンクロしてるな」となるし、はるきの場合は「こういう表現、はるきらしいな」と思えるが、羽那に関しては、今の私では「羽那はこういうこと考えてそうだもんなぁ」というようなイメージがあまりできないのだ。ただ、ここで羽那のコミュを読み、本人をより深く理解する方向に考えを進めてしまっては今回の趣旨がブレる。こうなったら、私が今把握している羽那の情報をやりくりして、前のめりに斃れるスタンスで曲や羽那を理解していきたい。その結果トンチンカンなセルフこんにゃく問答のごとき考察になってしまったとしても、未来の私が笑ってくれるだろう。

長々と言い訳を書き連ねたが、本曲のテーマ自体は、それほどややこしくはないと思われる。モヤモヤや諦めというコメティック共通のテーマにというモチーフを加え、周囲に一線を引きつつ斜めから物事を見ているような曲となっている。歌詞の中では

達観じゃなくてありのままあるだけ

引用元:コメティック「平行線の美学」
作詞:園田健太郎 作曲:ねりきり(KEYTONE)

と否定されているが、むしろ達観に近い視点での曲だと感じた。わざわざ名指しで否定されているということは、裏を返せば達観しているとカテゴライズされがちな状態、ととることもできる。これが羽那とどう繋がるのかを考えていきたい。

まず、本曲の印象を思い出してみる。本曲の歌詞全体を見た時の印象は「なんかスクールカースト高そう」だった。「達観」のような視座がそう思わせるのかもしれないが、それだけではないとも感じる。

そんなもんだよ、誰かが言う
「気にしすぎてるんじゃない?」
違うって言う私がおかしいみたい


「君が知りたい」
言われてもね、きっとね
キャパオーバーだね
嫌いな訳じゃなくて虚しいんだ

引用元:コメティック「平行線の美学」
作詞:園田健太郎 作曲:ねりきり(KEYTONE)

『気にしすぎてるんじゃない?』と言ってくれる「誰か」がいて、『君が知りたい』と求める声があり、手を繋ごうとしてくれる人がいる。本曲では、こちらを見てくれている「他者」が存在しているのだ。これは他の二曲とは明確に異なる点である。その上で、語り手(という言い方が適切かは分からないが、便宜上そう呼称する)は現状に疑問を持ち、素直な困惑や悲しさを持ち、何やらどこかに一歩を踏み出そうとしている。妙な言い回しになるが、モヤモヤの次元が高いように感じるのだ。欲求階層説によると、人間の持つ欲求は、低い次元のものが満たされると上へ上がっていく。この曲の語り手は、集団に所属し、その中である程度認められている状態にあり、その上で自分の在り方について悩んでいるように思えるのだ。これが「スクールカースト高そう」という印象に繋がっているのかもしれない。

続いて、羽那について考えていく。まずは自分の考えを羅列する。素直。物事をあまり深く考えない。絶対純白領域。カースト高めあんまり悩まない系天然女子。いわゆる「社会的強者であることで享受している特権への無自覚」がありそうだが、にも関わらず誰かを見下したりしなさそう。私の中での羽那の認識はおおむねこの通りである。その他に、かわいい。目がチャーミング。桃太郎。スタイルが良い。髪色が珍しい。鈴木…。とも認識しているが、考察には関係ない。曲の印象と一致しているのは「スクールカースト高そう」という点だろう。容姿が良く、屈託のない振る舞いができる所から来ている印象である。また、やや卑屈な考え方になるが、チェイン(現実世界でのLINEのようなものか)のアイコンがまさかの桃太郎なのも、スクールカーストが高い人間だからこそできる自由な行いだと感じた。アイコンの桃太郎を見た人間は「地元愛だね!」と笑い、それを受け入れるのだろう。私だって笑ったし、羽那への好感度が上がった。

かわいいなコイツ

ただし、羽那の普段の振る舞いは、本曲における「周囲に一線を引き、達観したような視点で物事を見る」ということから離れているように見える。むしろ、勝手にあれこれと線を引き、まっすぐではない角度から羽那を見ているのはプロデューサーの方だとすら感じる。もっとも、それに関する感想は今回の趣旨と大いにズレるためここでは言及しない。重要なのは、本人の心情は一致していない(もしくはそれを表に出していない)が、羽那の持っている属性は本曲と一致している点である。これもまた、はるきとは違った方向性で羽那というフィルターを通し、コメティックのテーマを出力していると言えるのではないだろうか。

本曲を「コメティックの透明」と表現したが、「透明」という言葉を歌詞の中からそのまま引用してくる形になってしまった。輪郭は掴めているはずなのだが、全てを把握できているわけでは決してない。これは本曲にも、羽那にも言えることである。何が言いたいかというと、本曲を「透明」と位置付けたのは、ひとえに私の理解不足が原因ということである。


終わりに

歌詞カードとにらめっこをしながら好き勝手に書き散らしたが、冷静になって読み返すと所々認識がズレている気もする。特に羽那に対する理解が異なっている気がする。これからコミュを読んだり、続きのシナリオが来たりする中で、「あの時の考え、てんで的外れじゃん…」と思うこともあるような気がする。いや、数週間、あるいは数日空けて読み返すだけで的外れな箇所があると感じるだろう。そもそもタイトルからして、約一年前の曲を指して初期楽曲という表現を使うのはどうなのか。「今こそ聴くべし!」という言い方も鼻につくし…。今この瞬間にも、自分へのツッコミが止まらない。だが、それで良い。現時点での考えを叩き台にして、今後もあれこれと考察していけばいいのだ。そういうことにしておく。
読んでいただき、ありがとうございました。

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