時には昔の話を。
ぽつぽつ昔の話でも。
東大阪のTiGという会社に2年半いて、ある日先輩からこれやるよと手渡されたのが東洋フレームの求人票だった。
じつはTiGに入社する3、4年前に東洋フレームに飛込みで求人の面接に行っていた。その時、求人などしていなかったのだから当然断られたのだったが、先代の社長が話をしてくれた。
「うちに入社できなかったらどうするつもりやったんや」と言われて、
「いくつか他社を回ってみるつもりです」と答えたら、
「よそに面接に行くのならばしっかり連絡してから行けよ」と忠告を聞いて、それからその足でTiGに向かったのだった。
東洋フレームの求人票をもらって迷ったが、ここはひるまずに機会を逃さず行くべきだという強い信念のようなものに突き動かれ、ビビりのくせに即断で電話をした。
3、4年前に面接に行ったときは素人扱いだったが、TiGで溶接作業をしていると伝えると、
「もう見なくてもおまえの技量はだいたいわかる」
と電話だけで即採用だった。あとで知ったがTiGが自転車のフレームの製作をはじめるとき、教えを請いに研修に行ったのが東洋フレームだったそうだ。ちなみに以前、飛込みで面接に行ったことは覚えていらっしゃらなかった。
東洋フレームに移ったときは、「これで最新のアルミフレームにさわれる!」と息巻いていたのだが、入社してみるとくる日もくる日もラグ付ランドナーのリーベンデールのロウ付けばかりでアルミフレームなどてんでなかった。
やっとアルミの溶接ができると思ったときの仕事は、自衛隊車両のラックをアルミで作る仕事で、どうやら鉄製のラックを軽量化のためにアルミ製に順次置き換えていくというものだった。そのおかげでアルミ溶接を覚えたけれど、けっきょく自分がアルミフレームをさわる機会はなかった。
しかも当時のアルミフレームの軽量化が進んでスターシップなど溶接後の熱処理が必要になってくると、外注の熱処理業者では残留応力でフレームがゆがんでしまい、うまくいかなくなった。けっきょくスターシップのフレームなどは海外に外注となってしまった。
そんなこんなで自分がふれることのなかったアルミフレームだが東洋フレームでまったく製作していなかったわけではなく、小ロットだがテスタッチのラインナップや主に選手からのフルオーダーの注文がときどき来ていた。そんな量産工程とは別の特注品は鉄也さんがひとりでやっていた。
よく覚えているのは当時イタリアのCARRERAをつかっていたシマノレーシングチームから選手全員分のオーダーシートが来ていたこと。選手それぞれが特徴的なジオメトリーでそれらの原寸サイズの図面を目にしたときには、気分が高揚したのを覚えている。シマノレーシングの機材に東洋フレームの名前がでたことはないからおそらくCARRERAのロゴを塗装して使用されていたのだろう。
まとなりのない話になってしまった。
注釈や説明もしていないからわかるひとにはわかるくらいの一人よがりな話です。じぶんの魂(?)のために記しておきたいと思いました。