1985年、東大合格者に同姓同名がいた話
1985年1月下旬―――このとき私は浪人生活を送っておりました。
1984年3月初旬に、東大理Ⅰを受けて不合格となり、同僚のN君とともに、駿台予備校に通っていたのでありました。
志望校は、東大文Ⅰです。理Ⅰを受けて東大理学部に進み、そのまま研究生活へ――私の夢は、ノーベル物理学賞の受賞でありました。
東大に入る入らないで、四苦八苦しているようじゃどうしようもない!
――そう考えていた私にとって、一浪して理Ⅰに入学するなんてのは、耐えがたい屈辱でありました。自殺しようかとまで考えていました。
3月20日の合格発表のとき、父から「どうだったんだ?」と質問され、「普通に考えたら受かると思うよ。普通に考えたらね!」と答えたのですが、この時点で普通ではない悪い予感がついて回りましたね。
新神戸駅から新幹線で東京駅へ。東京駅で丸の内線に乗り換え、本郷三丁目で下車。歩いて10分くらいのところに東大の合格発表が掲示されています。常に、悪い予感が離れなかったんです。
で、合格発表を見た瞬間。
――「やっぱりない!」
――そう、私の名前はどこにもなかったんです。
(俺のせいじゃないんだからな!)
そう絞り出すように言うのが精いっぱいでした。
親に電話して、その足で帰宅につき、家に帰りついたのが午後9時頃。
「お父さんは?」
そう尋ねると、もう寝たとの答えが。それがあまりに辛すぎるのでありました。
そして、「今年、ダメだったら理系行くのやめる。文転する」
――以前からそう語っていたのでしたが、文転して志望校を東大文Ⅰに改めた私に、
「本当に文転なんかしてええんか?
と念押ししながら心配そうに尋ねたのが、父だったんです。
私、もともと、苦手科目はありませんでした。
東大の合格最低点は驚くほど低い。440点満点中210点、つまり、半分くらい取れれば十分合格できると言われておりました。
――あの頃と今とでは、変わってしまったんでしょうかね…。受験テクニックが向上している今日なので、実情はわかりませんが……。
当時の感覚で言うと、「だいたいこんな感じ」というアバウトな感覚で論文が書けるなら、十分合格できるはずだ、ということになるんです。私にすれば、十分勝機はあったんです。
証拠ではないですが、夏休みに行われた第1回東大実戦模試では、私の順位は、全国で29位。もう合格確実と言われておりました。
余談ですが、このとき、数学(80点満点)の結果は80点。
堂々の満点です。
まったく信じられないことですが、このときの東大模試受験生の平均点は10点くらい。
第2位の得点は47点でした。
これで、私の数学の偏差値は108という、多くの人が「偏差値って100超えるんだ!」と驚くくらいの成績を収めたのでした(すみません、ちょっと自慢入ってます)。
しかし、通常の模試だと、平均点がそこそこあり、偏差値がそれほど高くないので、それほど大したテスト結果など望むべくもありません。英数国は偏差値80くらい。社会2科目は偏差値47~50。平均点以下だったりしたのでありました。
これを文系科目でならすと、トータルの偏差値は72~75。
東大実戦模試以外の実力テストで、第一志望である東大文ⅠはB判定。私立の志望校に書いていた、早稲田大政経学部、法学部は、ともにB判定なのです。
これは私にも言い分があって、早稲田の政経学部は、受験科目が英数国で受けられるのです。つまり、苦手でもない英数国のみでテストを受けるんだから、絶対合格だ!となるわけです。
しかし、母親はそうはみてくれません。
志望校東大っていうけれど、もし落ちたらどうするのか。絶対合格できる滑り止めを受けた方がいいのではないか?
――こう長々した電話で説得したというわけです。
そんなわけで、私、東大といっても、専願で受験したわけではありません。
併願校は、早稲田大政経学部政治学科、早稲田大法学部、慶応大商学部の3校でした。
さて、併願校の結果です。
早大政経――英数国でしたから、結果はもちろん合格。
慶応大商学部――もちろん、合格です。
早大法学部――これ、不合格でした、恥ずかしながら……。
こうやってみると、早大法学部は、前評判通り、不合格。
入試日程で、一番早かった慶大商学部は、当然のように合格でしたけど、実際に自分の目で合格した初体験だったので、自然と笑みがこぼれる貴重な体験となりました。そして、その後の東大文Ⅰの合格発表も初の体験で、もう飛び上がらんばかりにうれしかった……。
この年のサンデー毎日の「東大合格者全氏名掲載!」のグラビア写真で、でかでかと合格発表を指さしながら大笑いしている私の写真が載っていることも、今となっては忘れられない経験です。
これ、実は理由がありまして、「田中秀明」という名前で理Ⅰに合格しているヤツがいないかどうか確認したら、1985年には理Ⅰに同姓同名の人間が合格していたのがわかったからなんです。
「ほんでも、ほんまいい顔で笑ってるわー」
大阪府箕面市在住だったおばさんの言葉が今も忘れられないものになっています。