
私の高校受験時代(8)~一日早い帰省
さて、私は父兄に送迎され、JR福知山線の柏原駅に来ております。駅までは、車で15分くらいであったと記憶しております。で、待ち時間数分で大阪行の電車に飛び乗りました。
このときの心境は、うれしさの反面、本当にこれでよかったのかと半ば不安の混じったものでしたね(汗)。
どんな経路だったか、記憶にはないのですが、椅子に座りながら川を何度も渡った記憶だけははっきり覚えております。季節は冬さながらの風景で、雪が降り混じっておりました。
大阪駅に到着すると、あてはなかったのですが、元々祖父の住んでいた事務所を探しました。祖父は大阪駅の扇町公園の近くに一戸建てを買い、そこで商売を始めたのですが、私が小4のとき、兵庫県の播磨下里駅(兵庫県加西市)というところの曾祖母の家に移り住んでおりました。初めて行ったのは私が小2のときで、やたら広い敷地内に移って、(田舎だなぁ…)という印象を受けたのを覚えています。それ以来、田舎に帰省するといえば、この田舎の家で(「王子」と言っていたので、便宜上、王子の家と言っておきます)、小4~小6まで春・夏・冬の長期休暇に訪れていました。
中1の大阪訪問は小3以来なので、4年ぶりに訪れたことになります。
大阪のおじいちゃんの家は地下街を抜けて徒歩10分くらいなので、地下街の複雑さに戸惑ってしまいましたが、初めて迷って訪れたのが、関西テレビのビルの看板が見えてきて、「あ、これは違う!」
と焦りまくった記憶があります。
記憶にあるのは、阪急東通り商店街で、泉の広場を上がって、そこから10分くらいの距離なのですけど、なんとか阪急東通り商店街を見つけたときには、「そうこの辺。この辺だ!」とテンションが上がりました。
記憶のある通りに出たことで、記憶を頼りにやってきたわけですが、最後に見覚えのある通りに差し掛かると、ゴールはもうすぐです。徒歩数分で大阪のおじいちゃんの家にたどり着くことができました。
季節はお正月明けで、誰もいないはずの日だったのですが、この日、おじさんが残務処理のため、土曜出勤していて(博昭おじちゃんと呼んでおきます)、
「おや、秀明やないか。どないしたんや?」
と声をかけてきたのでした。
「今日まで塾の合宿があって、さっき帰ってきてん」とだけ、簡潔に返事しておきました。
おじちゃんは、
「そうか、ならちょうどよかった。ワシも、もう帰ろうと思っとったんや」と答えました。
後は、おじちゃんの車に乗っけてもらい、神戸市舞子駅の近くにある実家へ送ってもらうことになりました。これで合宿生活の終わりです。
家に帰ると、お母さんが、
「あら、どうしたの?明日帰ってくるはずだったのに?」と驚いた表情で問いかけてきました。私は、「うん、まあ、いろいろあって、今日帰ってきてん」と手短かに答え、翌日の英学塾(楠戸塾)に行く支度を早々に始めたのです。
☆
両親はそれ以上、何も尋ねはしなかったのですが、秀明は、「途中で帰ってきた」という第一印象だけ、ハッキリと覚えていたみたいです。
本来なら、伸学社に通うことになっていて、もし、このとき伸学社に通い始めていたら(母の言動も、無事、伸学社の合宿を体験して何事もなかったら、覚悟を決めて塾通いさせようと思っていたと言っています)、私の人生は大きく変わっていたかもしれません。でも、それだけの覚悟はできなかった、ということなのでしょうね。
私は、
「野球部の夏の総体が終わったら、その時期には内申もほとんど決まってるはずやから、中3の夏合宿から行かせてもらうわ」
と答えました。――これって、他の選択肢と違って、猶予期間を設けたということですよね。
こういう経験があるからこそ、もし我が子が、進学塾に通うのをためらったとしたら、
「決心がつかないのか? それだったら、そんな中途半端な覚悟、もうやめておけ!灘高を目標にするなんてことはあきらめろ!」
と迷わず言うでしょうね。「思い立ったが吉日」という言葉通り、スタート切るなら、即、切るべきだというのが、私なりの信念です。(続く)