【書く習慣】#4 私にとっての「最高の人生の見つけ方」とは?
映画「最高の人生の見つけ方(2007・アメリカ)」を見た。
いつか見ようと思い続けていたのだが、何年も先延ばしにしていて今になった。
世界を飛び回るシーンがあったり、壮大な景色が映し出されたり、さわやかな友情が素敵だったり、個人的に好きなタイプの映画だった。
もっと早く見ていたらよかった気もするが、こればっかりは仕方ない。
ありがちだけど、自分でも「最高の人生ってなんだ?」と考えてみた。
正しくは大して考えていないのだけど、ぼんやり心に引っかかっている。
「何の制限もないとしたら、何がしたい?」
「明日命が尽きるとしたら、今やっていることは本当にやりたいこと?」
この類の質問は、誰もが一度はどこかで聞いたことがあるのではないかと思う。
私も真剣に考えたことがある。
「人生のやりたいことリスト100(以上)」を作ったりもした。
でも、最近この質問そのものに少し苦手意識があることに気がついた。
自分で真剣に考えたやりたいことリストも何とかひねり出した感があるものも混ざっているし。
時間を経て考えると「私、これやりたいのか?」というものもある。
気持ちは変わるので変化があることは気にしていないが、そう感じるものは大体「なんか書かなきゃ」が書かせたもの。
きっと最初から本心じゃなかった。
一方で本当にやりたいと思って書いたことなんだけど、抽象的で「今のでdoneにしていいのか?私の人生まだまだ続くぞ」と思うものもある。
そうなると、スタンプラリーのようにチェックすればいいってものではないとはいえ、一向に減らないリストに「何もしていない感」が拭えなくなる。
チェックするのもしないのも難しいものである。
最近苦手に感じる理由はもう一つあって「私の人生はおそらくまだ尽きない」から。
確かに突発的な事故は予測ができない。
だから「明日命が尽きるとしたら〜」という考え方はいつの時代もささやかれる。
とはいえ、この考えのもとなりふり構わず思いのまま時間を過ごそうとしたら、私の場合は破産街道まっしぐらだ。
いや、街道に入る前に破産する。
まずは、一番早く取れるチケットで日本を飛び出す。
行く先々で、屋台飯を楽しむこともあれば、高級ホテルでご馳走に舌鼓することもあるだろう。
観光地だけではなく、一歩先のローカルに人気の”現地”も楽しみたい。
言葉はトラブルにならない範囲で理解できればいいので、通訳はつけなくてもよさそうだが、安全は確保したい。
行き先によってはボディーガードが必要かもしれない。
泊まる場所は高級ホテルじゃなくていいが、安宿というのも……
見たいものを見て、食べたいものを食べて、各地の体験も忘れずに。
本当に命が尽きると知っていれば、映画のような最後の時間を過ごすのもいいが(むしろ、映画のままに過ごしたい)、「最後かもしれない気分で」というのには無理がある。
明日からも日常が続くから、お金使い切ったらまずいな。
今、飛行機に飛び乗ったら明日の仕事はどうなるか……ついでに、戻ってきても仕事無くなっているよね。
などなど、現実的な邪念が抜けない。
また「何も制限がない」とは言うが、制限はある。
金銭的事情は一旦無視したとしても、ある理由から私は車の免許は取れない。
今は詳細を書く気にはなれないが、これは変えようのない事実。
だから、何も制限がないとしたら/命が尽きるとしたら、という質問は答えが出なくなる。
時に「そのくらいの気持ちで」というのは大事かもしれないが、文字通りそのままとはいかない。
明日も明後日も1年後も、おそらくは日常が続いているであろう私には、1ヶ月・1年・約10年・時間を気にせずいつか、くらいに分けてBucket Listを考えるのがちょうどいいのかもしれない。
死ぬまでに絶対に叶えたいこともあるけど、今すぐにはできないこともある。
仕方ないけど、それはそれ。
そんなことを思いながら、今月もまた来月分のワクワクリストをCITTAに書き込む私がいる。
まずはなんてことない日常を、少しだけ幸せ多めに感じられるように。