自由へ
その日は少し身体が軽く感じた。
でもそれ以外、特に変わった感じはしなかった。
「キレイにしなきゃ」という強烈な気持ちが、
私をベッドから放り出させた。
今日、これから起こることを理解しながら、
私の中に覚悟のようなものが
芽生えることはない。
「ああ、今日なんだ」と、
どこか他人事のように感じていた。
目覚ましが鳴る。
そういえば、時計も見てなかった。
目覚ましが鳴るより早く起きたのは、
いつぶりだろう?
隣の部屋でバタバタと身支度をしている弟は、
今日も大慌てで朝練の準備をしている。
いい奥さんと子供に囲まれて、
きっと幸せに暮らしていくんだろうな。
その風景を思い浮かべて私は、
想像の中にいる彼らの一員であるかのような、
幸せな気持ちに包まれた。
どうやら今日は、
とても感受性が高くなっているらしい。
一日の始まりを告げる鳥たちの鳴き声。
様々な生活音。
それらすべての音が、私の耳や脳を超えて、
直接心を震わせている。
認知するすべてが心地よい。
今日のこの世界は、どうやら全面的に
私を迎え入れてくれているみたいだ。
その気持ちに従うまま、
私は身の回りを整頓し始めた。
どれくらい経っただろう?
お母さんが身支度を終えて、玄関を出ていった。
相変わらず、化粧が濃いなー
誰に会いに行くんだろう?
もう、そんなことはどうでもいいけど、
お母さんが幸せになってくれればいいな。と
普段は全くよぎることのない思考が、
私の中を自然と流れた。
「そういえばお母さんって、私を生んでくれたママだったんだ」
ふいに現れたイメージは、
母が私に愚痴を言っている場面だった。
「お父さん、帰ってくるの遅いね」
「もうご飯食べちゃお」
イタズラな笑みを浮かべて母は、
私に話しかけ続けた。
まだ話すことの出来ない、小さな小さな私に。
私は、その母の笑顔が大好きだった。
今日の私はどうやら、イメージすれば
どこにでも行くことが出来るらしい。
思い出すのは、過去の幸せだった思い出ばかり。
どうやらこの世界は、私たちの意識次第で、
とても幸せな世界へと姿を変えるらしい。
私は少し眠っていた。
目覚めると自宅の電話が鳴っていた。
すぐに留守電に切り替わる。
「○○中学校の鈴木と言います。
○○さんが学校に来ていない件で・・」
そうだ。
今日は学校だった。
まあいいや。
私は家を出た。
「あ、今日は制服がいい」
気づいた私はすぐに引き返し、
着替えて再び外に出た。
外に出ると、
普段は全く意識することのない、
様々な音が耳に入ってきた。
「気持ちいいな」
多分3歳くらいの時だったかな。
私の中にある、最も古い記憶。
母の実家に帰省して、
近所の子供たちと山に入り、
木々に囲まれている私。
自然って気持ちいい。
そう思った一瞬が、
今でも強烈に私の記憶に残っている。
開放的な気持ちよさを感じたときはいつも、
その記憶がフラッシュバックする。
歩きながら私は、その後どうなったのかを
思い出そうとしたが、全く思い出せなかった。
あてもなく気持ちの良いほうに
向かって歩いた私は、
立ち止まっては空ばかり見ていた。
日が傾き、空が赤くなり始める頃、
私は思い出した。
「ああ、行かなきゃ。」
行先はすでに決まっていた。
「ここが一番高いから」
マンションに入りエレベーターに乗る。
行先は14階。
一番右上のボタンを押すと、
私は上へと連れていかれた。
屋上には簡単に入ることが出来た。
そもそも入れなかったらどうするつもりだったのだろう?
後になって私は考え、少し笑った。
立ち止まって、大きく息を吸う。
じっと夕日を見ていた。
とてもきれいな風景。
「あの雲に乗れたら、気持ちいいんだろうな」
「よし、まずはあそこに行こう」
覚悟や決意のようなものはなかった。
目が覚めてから今まで、
すでに決まったシナリオを
辿ってきただけだと思う。
私の足は、あの雲を目指して
一歩ずつ進んでいる。
「靴、邪魔だな。」
ザラザラとした感触が、
靴下を通して私の足に伝わる。
みんな、こんな気持ちで靴を脱いでたんだな。
私はそこで初めて気づき、
見たこともない「みんな」を思い
また幸せな気持ちになった。
不思議だよね。
怖いとかそんな気持ちは全くなかった。
ただ私は気持ちの良いままに、
あの雲を目指していた。
私の身体で進めるのはここまで。
現実と自由の境界線に、私は立っていた。
感慨は、、ないかな。
それより早くあの雲にたどり着きたい。
県境をまたぐくらいの感覚だよね?
行くよ。
「せーのっ!」
そのまま下に落ちるのかと思ったら、私は宙に浮いていた。
「下まで行かなくていいんだ。ラッキー」
もう自由だ。
早速、あっちに行ってみよう。
その直後、下ではドスッとものすごい音がした。
何が落ちたのかは分かっている。
でも、今の私にはどうでもいい。
自由になった私でも、
雲に乗ることは出来なかった。
仕方がないので、雲に包まれ
私はずっと夕日を見ていた。
これから、気持ちの良いことだけを
求めて生きていけるのかと思うと、
私は良い選択をしたのだなと思う。
夕日が暮れ、私は静寂に包まれていた。
でも、寂しくない。怖くもない。
私はどこにだって行けるのだから。
「さあ、次はどこに行こうかな?」