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「うたかたモザイク[TF1] 」で永遠の愛を知る猫と人間のはかない交流

「うたかたモザイク」に編まれている一編の短編小説「神さまはそない優しくない」は、通勤途中の駅のホームで亡くなった夫が猫に姿を変えて、妻の飼い猫として暮らす話だ。設定はユーモラスだが、妻に対する夫の強い愛情を感じる描写が続く。一方の妻もずっと夫を忘れることはない。

この小説を読むまで、永遠の愛なんて無いと思っていた。「いつか熱は冷め、記憶は薄れ美化されていく」私のそんな思い込みは一掃された。「どうせ感情は上書きされていくんでしょ。永遠に続くものなんか何もない」ずっとそう思っていた。でも、これを読んだ後はそれで良いとわかった。一瞬でも嘘のない気持ちを猫に転生しても持ち続けられるとしたら、それで充分ではないか。純度の高い想いは永遠と等しい。

私の中の永遠の定義は。松本零士さんの「銀河鉄道999」で形成された。この作品では繰り返し、永遠の命について考察される。貫かれているテーマはこうだ。機械の身体になって物理的に長く生きることが永遠の命ではない。人は限りある命だから精一杯生きようとする。親から子へ、子から孫へと想いが伝わることこそ永遠の命なのだ。まあ、メーテルは時空を超えてほぼ永遠に生き続ける存在なので横に置いておく。しかし、鉄郎は限りある生身の命を選択したけれども親子や仲間との思いを永遠に引き続いていく決意をする。松本さんは、死ぬことは怖くない。命の長さは問題ではない。その人が死ぬときに歯ぎしりをして亡くなるか、短い間でも十分やり尽くしたと感じられるか、それが大切だと説いている。銀河鉄道999では、肉体という入れ物が変われば思いが持続しないと永遠ではない、といっているように思える。

しかしこの説によると、「神さまはそない優しくない」に登場する猫(つまり夫)と妻である人間とのやりとりは永遠ではないから尊くないのだろうか。私は想いが持続する時間が短いから、意味が無いことにはならないと考える。永遠に続かなくても尊い想いはあるのだ。人は亡くなるから無意味ではない。永遠に劣るわけでもない。南極の氷のように純度の高い思いがさらに高みに達している一瞬こそが永遠なのだ。時間の概念なんて関係ない。

この小説でも、登場人物である夫婦は姿形を変えてもお互いを想い続けていた。訳ありの不幸な事故を経験しているのににもかかわらずだ。猫は思う。「自分が亡くなった朝、駅のホームで起こった事故はふたりとも悪くない。もし悪いとしたら、そこへ至るすべてのこと。起こるべくして起こったのだろう」と。後半では、妻が言えなかった事件の真相が、実は猫に生まれ変わった夫に前から気づかれていたことが明かされる。それでも猫は妻を責めない。何と強い愛情なのか。

小説では、猫が人間の言葉をひと言でも発すると人間の時の記憶がなくなる設定だ。しかし、最後のせりふを言って記憶を無くすか、猫としての寿命をまっとうするか、いずれにせよ時間は無限ではない。どちらが先になるかはそう大差ないのだ。猫である夫は、命の消える間際には妻に気の利いた言葉を話したいと思っていたと思う。しかし実際に発したのは、人間として亡くなった朝に、妻に言えなかった言葉である。かっこいい言葉ではまったくない。これが言えたなら、事故の朝と猫として老衰のいまわの際と、愛妻と二度も死に別れることはなかった。命の火が消えそうな夫が人間のときから持っていた記憶が薄れゆくさまは、読者である私の身にどんと染みた。

後で気付いたのだが、妻は猫が夫だと知っていたのではないだろうか。そうでなければ、猫が最後に人間の言葉を発したときに、猫に泣いて謝ることもない。実はふたりとも相手の存在を感じていたのだ。わかっていたのに、お互いに知らない風に接していたとしたら、このふたりの愛情は深すぎる。

この小説は、犬好きで人間に媚びない猫が苦手な私が読めたので、犬好きの人にも間違いなくおすすめできる。本に編まれたほかの話には、さらにバリエーション豊かな愛の形が描かれている。ひとりでポテチをつまむ夜長に、またページをめくってみたい。

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