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共生の世界へ

知らないものへの恐怖

前回のあとがきに、生物学者 福岡伸一さんのウイルスについての文を転載しました。

緊急事態宣言がさらに延長される中、ウイルスについてだけでなく、私たち生物のこと、自然界のこと、人間のこと、自分のこれからのことなど、とりとめもなく考えています。

自分の将来、とりわけ生きていくことに対する不安を抱えている人は多いはず。

現代では、生きる=収入(お金)が必要となっているので、生きることに対する不安とは、仕事がなくなる不安だったり、貯金が切り崩されていく不安に置き換えられて。

かくいう私も以前(前回までで展開した過去のエピソードの時代)は、そういう価値観の中で、ぬぐい切れないとてつもない不安と戦って生きてきたわけだけれど、今回のコロナ情勢の中で、なぜかその不安は襲ってきていないのです。

先述した福岡先生の言葉で、ウィルスは私たちの中から生まれた(家出した)と書かれていて(もちろんコロナウィルスに限定した言い回しではなく、ウィルスというものの起源は、という意味で)

なんだか

地球外生命体を勝手に悪者と限定してとらえて恐れたり

意見の違う人や価値観の違う人を排斥したり

人間以外の動植物を生き物として扱わない人がいたり

人種で壁を作ってみたり

ヒトって”知らない”ものを恐れ、”異質な”ものをはじき、そうやって何とか生きてきた弱い生き物なんだなぁと思うのです。

今回、なぜ私が、生きることにさほど恐怖や不安を感じないですむのかというと、それは過去の経験で

そう簡単に人は死なないことを知っているから。この先どうなるの?!の先を体験して、景色を見たからにほかなりません。

そして、もうひとつ。

売ってくれる人や店・物がなければ、例えお金を持っていても生きていけないという経験。

お金がなければ生きられない都内から、ある事故をきっかけに移住した田舎町では、時間軸も、ものの価値観も違っていました。

都内の時の感覚で、朝から終電まで仕事をして自宅に戻ると、開いているお店は(コンビニすら)なくて、現金を握りしめて空腹で泣きそうになりました。

ひもじいってこういう事をいうのだと思った。

その頃すでに息子は独立して一緒には住んでいなかったので、自分ひとりの暮らし。しかも都内での生活も長かったから油断しました。

お金さえ持っていれば何とでもなるって思っていたのです。

都内では、お金さえあればどんな深夜でもタクシーを捕まえられた。ちゃんと楽に自宅へ連れ帰ってくれる。

だけど、この町では、タクシーも取り合い。終電と共に長い長い列ができて、一旦タクシーが出払うと、30分以上もどってきてくれない。

どろどろに疲れた身体に空腹を抱えつつ人気のない道を歩いて家にたどり着いたころには、もう何も考えることができなかった。

天井を見つめながらラジオをつけて、この状況を改善するには、自分の固定観念をいちどきれいに取り払い、仕切り直ししなければ。。。と遠のく意識の中で思うのがやっと。


価値観の転換期

まるで母に聞いた戦後の様に、食料が貴重で貴重で、皮も芯ももったいなくて捨てられない。

月に一度の貴重な休みを利用して(当時私は交通事故あけの復帰で、なんとか成績を取り戻そうと必死だったので)、できるだけ日持ちする野菜を中心に買いだめをする。

生鮮食品は、購入した日からせいぜい2~3日以内だけ口にできる贅沢品。

この頃、実は私はサラリーマン人生の中で一番稼げていたから、余裕があったはずなのに、強制的に意識の転換期を求められたみたいでした。

携帯電話やPCは普及していたけれど、スマホはまだ登場していない頃の話。


移り変わる時代

10年ひと昔とはよく言ったもので、その頃から15年ほど経過した今、時代は驚くほどのスピードで変わってしまった。

しかも、テクノロジーの進化だけでなく、人の価値観や人生観までもがまったく異次元のよう。

最近読んだ本で、歴史を紐解くと、太古の昔から生き残りDNAをつないできたのは強者ではなく進化に適応したものだけだと書いてあった。なるほど。

適応能力を身に付けた新しい世代が生き残る”適者生存”説。

たしかに、世の中では、毎回毎回新人類とかユトリ世代とか、何かと名付けては、新しい世代の価値観が理解できないと各旧世代が揶揄してきたけど、結局文字通り”昔通り”の時代は完全なかたちで再現されることはないから、その時代に応じて進化できなければ先はないのだと容易に想像がつきます。

そのいい例が、今回のコロナ事情で露呈した仕事のやり方や、娯楽の楽しみ方。

少し前まで、この私も、youtubeの存在は知っていても、あんな世界が繰り広げられているなんで(あんな需要があって、経済圏として成立しているなんて)思いもしませんでした。

都内から移って間もなく、テレビの異常さに嫌気がさして、テレビは早々に処分していたし、youtubeも見ることはあったけれど、子供たちが将来の夢を語るときに、youtuberになりたいなんて言うくらい、職業としての地位を確立しているなんて知らなかった。

私以前の世代にとっては容易に理解できる世界観ではなかったと思う。

労働の対価が収入で、労働は苦労して汗水たらしてようやく得る尊いもので、高収入を得るのは高学歴の者で、アリとキリギリスのたとえの様に、好きなことをして生きていくのは愚か者で最後には泣く運命で、天国へ行くために頑張っていい事をする。

逆説にすると、苦労してアリのように労働しなければ収入は得られず、試験の成績さえよければエリートとなり得、天国へ行く目的がなければ人にやさしくはしない。。。?

この矛盾に気づいた次の世代が切り開いた新しい時代なんだと、ようやく今感じることができているのです。(とはいえ、皆さん努力は本当に惜しんでいない事もよくよくわかる)

私たち旧世代のほとんどは、矛盾に気づいていなかっただろうし、一部の人は矛盾に気づきながらも変えるところまで行けなかった。

もう無理でしょう?って限界まできて、時代は変わってきたけれど、人が時代に追いつけなくて、そこへコロナがやってきた。(帰ってきた?)

私が体験した強制転換同様に、今強制的に様々な価値観をもう一度見直すように言われている気がします。

ピンチがチャンス

だから、今必要なのは

冷静に、慌てずに、今の自分に何が出来て、どんなツールが社会にちりばめられているのかを自分の手を伸ばして取りに行くこと。

当時の私もはじめの頃は、福祉事務所へ行っても、こちらから尋ねない限り教えてくれない給付や支援の内容があることに戸惑い打ちひしがれていましたが、誰かが教えてくれることを前提に生きていてはいつまでも弱者で敗者だと思い知りました。

今は、インターネットという本当に便利な環境があり、もちろん全ての人ではないだろうけれど、ほぼ全国民がインターネットから何かしらの恩恵を受けているはず。

その気になれば、欲しい情報を思いのままに入手できるツールです。まるで玉手箱。

今回の非常事態宣言下でも、このインターネットがなければ、家庭での時間の過ごし方や、一人暮らしの孤独や、外出できないストレスや、仕事の遅れや先行きの心配など、決して埋められなかったはず。

銀行に行かなくても送金もできて、買い物も出来て、食材だけでなく、出来上がった料理の調達までできる。でも、それだけで終わらせてしまうと、もったいないツールなのです。

通常多くの人のインターネットの使い方は、出費が伴うこと。

だから入るものに陰りが見えると不安になる。

そこからもう一歩踏み出して、情報を取りに行く。

目前のお金より情報が重要なタイミングが時にはあると気づく。

お金はなくても、食べていける(食べ物がある)暮らしがあると知っているだけで、不安要素は驚くほど減少すると思うのです。

食べ物を自給自足する生活が実際にあるように、自分が選択すれば可能なことがどれくらいあるのか事前に知っておくこと。

情報と知識は少しでも多いほうがいい。

その上で、現状を乗り切るお金(給付なり支援策なり)を活用すれば、その先の未来は自ずと拓けてくるのではないかと思います。

過去の自分に言いたいことは、とにかく、自分が知らない事を前提に世の中はできていると思った方がいいということ。

見えている世界が世の中のすべてではないということ。

乗り切りましょうね。

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