短編 『 卵 』
(約1,200字)
勢いよく通り過ぎた風は、説明できないもやもやした気持ちと、クリスマスカラーのシャツから放たれた軽やかな無邪気さを受けて、帰り道が寂しくなかった。
いつからだったろう。
エイトの横顔であの人を思い起こさせていた現実から、いつの間にか逆転してしまったのは‥‥
あの人を想う前にエイトを思い出すようになってしまった。家までは10分もかからない道のりが、明日のことを考えている内にどんどん時間の経過を早める結果に変わる。
クリスマスは念願のビーフシチューで身体が芯から温まっていた。
ソファーに半身を傾けたテディベアの“くまお”は、シンとした部屋でじっとしている。
焦茶色のくまおの片手を掴んで引き寄せた。
「どうしたらいいんだろうね。このままじゃ、辛いだけだねぇ。あなたのご主人様は、どこで何をしてるんでしょうねぇ」
去年のクリスマスに、くまおの手を握っていたのは、あのひとだったな。
小さかった蝋燭の光を消すと暗闇がやってきて、同時に足元のランプが薄ぼんやりと柔らかい黄色に照らし始めていた。
そのまま意識が闇の中に消えていった。
カーテンの捲れたところから、白く光る筋が伸びている。
ーまた寝落ちしたかー
しっかりと“くまお“を胸元に抱きしめて、ソファーで目を覚ました私は、首の辺りと背中に親指で力を入れて押したような鈍い痛みを感じた。
上着だけを脱いで、靴下は両足のつま先を器用に使いカーペットに脱ぎ捨ててベッドに潜り込んだ。
3時間ほど泥の中に横たわるように眠っていた。
クリスマスの次の日は寂しさを運んでくるときもある。周りの人達みんなが、愛情に恵まれた夜を過ごして、自分だけが時を止めている。それは、10月でも、11月でも何月であってもいいような投げやりな気分だ。
そう思うのと同時に、大切なクリスマスがあった過去を懐かしむ自分もいる。
ぐっすり眠った身体には、鈍い痛みは消えたのを実感した。
一冊の絵本。
本棚からはみ出している。
『あの日のビー玉』には、美しい筆記体で
本の内側に記名がされている。
あの人が、唯一、声を荒げて私の手先を制したことがあった日。
『Eightへ』と几帳面な文字が並ぶ。
料理をしていた。
厚みのある本で、パンの生地を均そうとしたのだった。パン生地には布巾を掛けてあって、本屋のブックカバーがついたその本を近くの本棚から無造作に取り出した。
「これはダメだ」
いつもは静かに話す低い声が、今回は恐ろしく厳しく私の動作を制した一瞬だった。
ーいや、ごめん。他のにしてくれない?
後ろから優しく抱きしめられたことがあって、私はその日を忘れたことがない。
あれは、エイトの本だったんだ。
抱きしめられた感覚はリアルに忘れないのに、声だけは、あれから幻のように薄れる記憶になりつつある。
続く
※フィクションです
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