短編 『 淡 』
(約1,200字)
ーこのまま帰るのも勿体ないかなぁー
日曜日の午前中は、他人の笑い声すら受け入れられる。幼い子供の泣き声すら、遠くにあって、うるさく感じることがない。
景色はフィルターをかけたように1割増しで柔らかく明るい色で満たされている。
「休みだからだよな。仕事の日には、優しい気持ちになる余裕がないってことだ」
エイトは会社の通用口から公道へ出て、最寄りの駅に向かい進み、ガードレール近くのプランターに小さなトマトが鈴なりになっているのを見つけた。
その隣には桜草やビオラが目に入った。
ーそうだ、あの店に寄ってから帰ろうー
踵を返し、行く道を戻ることにした。
蔦が絡まる入り口の看板には「J」の一文字が書いてある。入り口の側にはミニトマトとバジルが植っていた。
中を覗くが暗く、人のいる気配がない。
「こんにちは。あと20分で開けるけど、何か食べてくかい」
後ろから声を掛けられて、エイトは振り返った。声の主はエプロン姿で、紙袋にフランスパンやら長ネギやら小脇に抱えている。
「あの、お昼には早いけど、お店が気になっていたんです」
「知ってるよ、2回くらい店の前で見たことあったから、今度こそ声を掛けようと思っていたんだ」
どうぞ、と促すように右手で扉の方にいざなった。
店内は、入り口横の背の高さほどあるグリーンの陰に隠れたスイッチを押す彼の動作で、パッと明るくなる。
「適当にかけてて。
いま、飲み物を用意するから」
マスターである男は、紙袋をカウンターの手前に無造作に置くと冷蔵庫に向かい、果物やジュースの入ったピッチャーをいくつか取り出した。
「どうぞ」
エイトはあまりの手際の良さに驚きながら、すみません、と小さく呟いた。
目の前に置かれたのは、お冷とトマトジュースだ。
あ、と声が出そうなほど拒否反応があったが、開店前の折角のご厚意を無碍にしてはいけない。
ありがとうございます、と礼を言ってから、用意されたストローをゆっくりと手にした。
「ごめんな、まだ野菜を収穫してないから。すぐ戻るけど、時間あるかな、大丈夫?」
エイトは頷いて、苦手なトマトジュースをストローから啜ってみた。
美味しい!
思わず笑みがこぼれた。
「待ってます。ありがとうございます。
いってらっしゃい」
「トマトジュース、苦手だったろ。
君は、気持ちが表情に出るな。その方がいい。人間、素直が一番だ」
エイトは離れて暮らす兄を思い出していた。
先回りして、自分がダメだと思うものをひっくり返してくれる人だった。苦手意識が、いくつも泡みたいに消えてなくなるんだ。
「すぐ裏が畑だから、ちょっと待ってな。メニューから食べたいもの、決めておいてくれよ」
エイトはすぐにトマトジュースを飲み干してしまった。
カウンターに置いてあるピッチャーには、泡が内側で踊っている炭酸水が、彼を静かに待っている気持ちがした。
ランチメニューの写真で、瞬時にビーフシチューを選んでいた。
通りの向こうでは、軽やかな硬式ボールを跳ね返す音が、子供たちの声と共に響いていた。
続く
※フィクションです
↓次回のお話です。
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