短編 『 銀 』
(約1,100字)
あれから2日間は、遅れを取り戻すために必死になって目の前の仕事に没頭した。
ぐっすり眠った朝に、朝の光が届く前、彼の夢を見ていた。その左手が首の後ろから軽く支えられている。身体が温かく守られて満たされている高揚感を覚え、すぐ目の前の顎の下に額を寄せていた。
ずっとこうしていたいと思う気持ちで軽く目を閉じて数秒後、もう一度、頬に顔を近づけた先には、エイトがいた。
エイトは瞼を軽く閉じていた。まどろみの中でも、優しい気持ちは変わらない。
夢だと気付いて自分の右手で耳から肩の方まで、彼の掌を感じた場所をもう一度なぞってみる。
幻影は、年上の彼の方が現実味が無くなってきているのだ。一年前、彼と住み始めようと思って今のマンションに移ってきた。
女性の一人暮らしには広めのリビングと、奥の部屋はがらんとしたままの和室がある。
彼がそこで寝起きするはずだった。
「起きなくちゃ‥‥」
誰に言う必要もない言葉が宙に流れて、また一人で待っている虚しさを確認しなければならない朝がきた。
台所にはシンクの隣に洗い終わりの食器がすっかり乾いて、食器棚に戻されるのを待っている。喫茶店でもらったパプリカのピクルスは食べ終わり、空き瓶が他の食器とともに重ねてある。
「こういうの、空で返さない方がいいのよね」
私はリンツのリンドールチョコレートをいくつかピクルスが入っていた空き瓶に詰めた。
「ジンちゃん、こういうの好きかしら」
ミルク、ピスタチオ、ストロベリー&クリーム、キャラメル、ヘーゼルナッツ、ミルク&ホストラッチアテラ、ダブルチョコレート
スイスのリンツチョコレートは、ご馳走スイーツで、たまのご褒美のために用意しておいたもの。あまりチョコレートは好んで食べなかったが、友人からもらったベルギーのゴディバチョコレートが端を発して、高級なチョコレートを探すのが楽しみになった。
空き瓶を返すのと、お土産にアソートセットを一袋、綺麗めの紙袋に忍ばせて会社用のバッグの横に置いた。
今日は、ジンちゃんのビーフシチューにありつけるだろうか。
凍りつきそうな指先に摩擦を与えて、喫茶店に向かっていた。
喫茶店の蔦が見えると、私は一度、立ち止まってから紙袋の中のチョコレートのアソートセットだけ取り出して、会社のバッグの底へと場所を変えた。
重みのある扉を開けると、そこはクリスマスツリーの飾りつけが目に飛び込んできた。
ー素敵、と声に出してツリーの脇を進み、カウンターへ向かう。
「こんばんは。今日はビーフシチューを食べに来ました」
ジンちゃんは、クリスマスカラーのシャツで出迎えてくれた。
続く
※フィクションです。
↓次回のお話です
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