短編 『 無 』
(約1,300字)
ー今日は、いつもの店でいいでしょう?
広い室内は半分ほどが、まだ朝と分からないくらい闇の中だった。
仕切られたラグの境目から向こうでは、1日が始まっているようだった。
「ねぇ、ヒロったら、聞いてる?」
若干、甲高いときもあるキレ気味の女の声は、反対側を向いたままの加減で、起きたばかりの演出が必要だった。
女は、赤というよりは青みがかった紫に薄い赤のレースが二重になった高級な下着姿で、ピアスの確認をしていた。
あの格好は‥‥一戦交えたわけか。
全く覚えていないのだ。酒を飲んだのでも、メンタルが飛ぶような薬を摂取したわけでもない。明るい声は、太陽の下では気になりはしないが、朝の早い時間には耳を塞ぎたくなる。
「分かってる」
呟くように言ってから、もう一度、夢の中に戻ろうとしたとき、後頭部から耳にかけて細い指が這うのを感じた。
「やめてくれ。なんだか機嫌がいいな」
女は口を尖らせて、甘えるような表情で覗き込む体勢で顔を寄せる。
「適度な運動が肌艶を良くさせるの。ランチは晴子たちと一緒だから、適当な時間に迎えに来て」
そう言うとかがんで寝ている男の頬に唇をつけてから、女は浴室に向かう。肩の辺りまでの髪が顔にかかった。これが嫌でたまらないのだが、居候の身だと無碍に嫌がるのも憚られた。
もう一年か。
自分の名が「ヒロ」でないことも、前に側にいたひとが毒々しい色の下着など着ていなかったことも朧げに思い出せるのに、住民票一つ取れない自分には、女の服従に耐えるほかなかった。
「ヒロか‥‥」
適当に名前をつけられた自分は、明るい道の真ん中を歩く資格などないように思え、かといって、このままの暮らしを続けるには若過ぎた。
ー逃げてもいいのだろうか。
女は「レイナ」という源氏名を持っていた。
初めて会ったときは、目の前が惨状だったために言われるがままに連れて来られた。
カオスだ‥‥目の前には数人のひとが倒れ、レイナは自分の手首を掴み、部屋の唯一の出入り口へ駆け出したのだ。
「警察が来る前に、早く」
出口の近くに立っていたところに、頑固そうな恰幅のいい男が待ち構えていた。
「乗りな、こっちから逃がしてやる。二度とここへは来るなよ」
目の前の車にはサングラスをかけた男がハンドルを握り、車に押し込められ、二人が乗った途端に乱暴に急発進した。
「忘れればいいさ。あんたは悪くない。誰だって咎められる過去の一つくらい持ってる。気にするな」
何が起きたのかも分からないのに、忘れていいと言われても、その記憶すらないのだ。
「あんた、名前は?なんて呼べばいい」
恐らくドライバーも、誰かから頼まれた赤の他人なのだ。前方から明るくなり始めた朝の光に、思わず目を細めた。
ー名前、名前は‥‥
思い出せなかった。
私はどこの誰なんだろう。
緋色のドレスの女は、手を握ったまま離さない。頬には血が滲んでいた。好みでなくとも、その手を離した時点で世界が閉ざされる気がしていた。
車の速度は徐々に落ち着きを取り戻してゆく。喧騒を忘れた街を進んでいき、心だけは虚しさを増していた。
透過色のガラスに色がついていたら、もっと目を閉じないでいられたのに。
続く
※フィクションです
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