誰にも救えないことについて
(約900字)
ももまろさんの記事を読んで泣いた
終わってしまった人生の事実を知ること
これが一番キツい
誰が悪いとか、
本人の努力をどう評価するとか、
何かしらの救いがなかったのか、
正されなければいけない行いが分からないか、
映画によって浮き彫りになった魂に手を合わせるしかない
私は行儀がいいことに、その人の品性を感じて生きてきた
中には「学が無いこと」や「仕事に就かないこと」を取り上げての不幸を悲しいことだと感じてきた
毒親は実際、居ることを知っていても、私には実感として感じることは出来ない
それをSNSの場で発信するのは反対だが、
生まれ落ちた運命が不公平な世の中だということは知っている
人間性、人生観は、環境がつくる
生き方、そのひととなり・・・隣人が窃盗をする場所に生きていたら、身近な他人に過敏に危機管理能力を発するだろう
人間の真の優しさは、ひとから教わる
誰かが自分に対してしてくれた行動が優れていたら、その真似をしたくなるもので、優しくありたい気持ちは教わってきたように思う
私は「箸」を集めるのが趣味だが、それを笑う人は身近な人間にはいない
日本人としての行儀や作法が、箸の持ち方に現れるが、箸を正しく使うのは私には当たり前のことなのだった
当たり前の幸せを与えられない人生は私には『特殊』なこと。
私の当たり前は、世界の誰かにとって、
当たり前ではなく
学校に通わないこと、漢字を覚えないこと、コロナ禍にマスクをしない人生が、義務教育をまともに送らなかった人の『当たり前』なのか
価値観を揺さぶられる人生を知り、正義や自分の言動を改めて考えようとするきっかけになった
みんな違って、みんないい
‥‥‥というのも、
私には違う気がしている
自分が都合のいい人になったと気づいたら、慈愛を踏み躙られてバカバカしくなり、親切の代償を求めるようになる。
アホによく聞こえるように言うと、
人は誰しも限界を持っている。
都合のいい人から見返りを求められたら、
すぐ悪い人とか障害と揶揄するんじゃない。
抜粋
ももまろさんの言葉が刺さって、朝ご飯も食べずにこの記事を書いている
私の優しさは何だろう
とっくに踏み躙られてはいるけれど、悪い人と揶揄されようと、私は私、変わらない
亡くなった人からもらった優しさは、踏み躙られても奪われるわけにはいかないんだ
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