未来の政治
大阪に住民票を移してから初めての選挙。やはり東京とは情勢が大分違う。大阪発祥であり、現府長や市長も所属する「日本維新の会」の存在感が東京に比べるとはるかに強い。候補者の顔や経歴が自民党以上にヤクザっぽい。あまり興味がなかったが、割と短期間で自民党から実権を奪った「維新の会」とはどんな組織なのか?一体どんな歴史で、どんな団体と利害関係があり、どんな力学が働いているのか、近いうちに調べてみようと思う。闇雲に批判をして敵視しているだけでは何も理解が進まない。数字から判断すると、すぐ側にいる隣人や八百屋や肉屋で目に前に並んでいる人、会話を交わすことはなくても、同じ街に暮らす多数の人々が何かを想い、維新を推しているのが現実なのだから。
中世のような絶対支配と不平等と非合理の時代から、民衆の努力、犠牲の積み重ねで勝ち取った選挙制度。民主的な時代を作るべく基礎となるこの制度を多くの人が強く信じている。「選挙は素晴らしい」「一票で変えよう」などなど、子供たちにポスターを書かせたり、小さな頃から洗脳のように啓蒙されている。私達には「それ」しかできないかのように、「それ」が絶対な制度かのように。狡賢く強い者たちは、自分たちに都合よい形で「それ」を(愚かな者たちに気づかれないように)少しずつ仕組みや方法を変えている。
もうそろそろその制度や仕組み、実施方法を新しく進化させる時期なのではないだろうか。有力候補しか貼られていない選挙ポスターの大きな看板、候補者名を連呼する選挙カー、エンタメ風な速報特番番組、投票所、手書き用紙、、日常生活ではどんどん技術が進歩しているのに何十年も前から何も進化していないし、皆が疑問にも思わないのが不思議すぎる。政治家は選挙の時だけ低姿勢でペコペコと媚びて、当選したら偉そうにふんぞり返っている姿など誰もが知っているのに「それが政治というもの」と勝手に合点して諦めている。地方では、自分たちの暮らす地域にお金を持ってくることができるような政界で力のある政治家が勝つに決まっている(自分たちの生活に直結しているのだから)ということは誰もが勝ち馬に乗りたがる、政治に見返りを期待して投票する。都会に住む人が「二階や麻生のようなどうしようもない奴が何故に圧倒的に勝利するのか?」と言っているが、それぐらい都会の人は田舎の経済の仕組み、現状が分かっていない。小沢一郎のようにこれまで地元に相当な恩恵をもたらしたにも関わらず、政界で力がなくなったと見るや「もう用なし」と簡単に捨てられる。「選挙」の投票原理を簡潔に説明するならば、利害関係による損得勘定が一番(七割ぐらい?)だろうか。後の三割ぐらいは時々の感情や流行に流されるだけ。無党派層の選挙率がどうこうで結果が大きく変わるような生やさしい問題ではない。
投票率が低いのに、高くするような仕組みの変化を拒んでいる(拒まされている)いっそのこと義務にすれば良いのに(義務なら私も嫌々行く)。しかし、義務にしたオーストラリアなどもあるらしいが実際は政治が劇的に良くなってるわけでもないらしい。
「私は選挙にいきません」と表明しても、非難されない世の中になってほしい。非難をする人は、政治に対する不満の矛先を投票しない人にも向けてくる。よく考えればそれとこれとは違う問題なのに、投票率が上がれば結果も多少は変わるのだろうけど、変わる方向が自分たちの利の方に転がるとでも信じているのだろうか。「選挙制度」を信じて疑わない人にとっては、投票しない人は異教徒であり弾圧すべき人間に思えるのだろう。
少数派で心細いけれど、私なりの覚悟と信念を持って現行の選挙制度そのものに疑問と拒絶を表明し続けたい。
思い出せば、子供の頃から道徳の授業が何よりも大嫌いであった。「正義」とか「善」の押し付けが恐ろしくてたまらなかった。恐ろしい多数決の現場を数多くみてきた。周囲の顔色を窺う表情、醸し出される同調圧力、簡単に流される意思、大きな声と強い言葉、信仰のような恍惚感に酔いしれる人、、、多数決で導かれる方向や答えには、美しい合理性や客観的な検証と理知を相互補完して高めるような建設的なものとは正反対の不安定で強引な感情の力に押し流されて決定されるようなものであった。声が大きくて気の強い奴に、弱い自分を守るためにくっついていくような金魚の糞のような奴らが多数なのだし、恐らくそれが動物の生命原理である自己保身に忠実な野生的感覚に基づいた行動なのではないだろうか。
SNS上では、自分の支持する政党や政策があたかも「正義」であり、敵対する党が「悪」のような思い込みで溢れている。自分の正義を振りかざすだけで、相手を知ろうとはしていない。相手には相手の「正義」がある。それがわからない人間が多すぎる。悪い奴らには悪い奴らの正義があり行動原理があり確固とした世界観がある。価値観は一つになどは絶対にならない。弱い奴が多数派になったら、立場が逆転して強い奴に変わるだけだ。選挙のように多数決で決めている時点で、全ての者に公平で理想的な配分になるなどあるわけがない。当たり前だが勝った方の価値観が優遇される。見返りを求めて強い奴を煽てて担ぎ上げ、見返りが少ないと、強い奴も取り替えられ、捨てられる。政治家は常に見返りを分配する事を強いられ続け、利害を計算し続けている、支持者と供託関係でお互いを疑いながら監視し合っている。ある意味で哀れな存在である。戦争も、国家の上に方にいる財界の実力者とそれに操られる政治家主導のようでいて、実はそれらを押し上げたのは下の方にいる国民たちである。ドイツも日本もそうだった。終わった後には悪い奴に騙された文句を言うが、当時の彼らは周りを窺うことばかりに熱心で、自ら進んで同調圧力に加担する存在であった。自分自身の頭と心で考え、独りになる事を恐れずに行動する人間などはいつの時代でもごく僅かだ。
私が選挙に対してこれほど生理的な嫌悪感を抱くのは、映像や街中の至る所で虚栄心と裏心が渦巻く人間模様、集団性を嫌でも垣間見させられるからだ。与党も野党もそれぞれの正義を掲げてお互いを汚い言葉で非難する。支持基盤である特定集団の権益を見返りに、数の原理で奪い合う代理戦争のようなものなのに、本音は隠して言葉の上では綺麗事を並べている。有権者は自分の所属や立ち位置が近い者が集まって、見返りを期待して組織を作り、代表者を選ぶ。損得勘定がない人間などはいない。他方を批判する事で自分たちの正当性を無理やりこじつけている。無私無欲の聖人などごく僅かで、みんなが清濁併せ持った人間であり、己の生活が大事なのだ。
自らが少数派を自称するならば、少数派政党に票を入れる事で身を守るという考え方もあるが、少数派政党の言動や態度や姿勢には、どうしても自分の美学に反する。自分を曲げたくないし、自分を守る為にこそ票を入れたくない。彼らに加担したり、仲間になんて絶対になりたくない。
私の考える未来の政治とは、人間の感情や生身の声を出来るだけ排した「膨大なデータを分析、数値を重視、複数の選択肢を示し、正当な評価を受けた信頼のおける少数の選ばし賢者が決定する(決定に責任などはいらない、賢者の選定はもちろん選挙ではなく、史上最難関の試験をして、過去の実績も重視する)」民主政治ではなく、無私無集団の機械的な政治。多数決を否定し、テクノロジーと賢者の叡智を信じる政治だ。恐らく大衆が大反発をするが、その為にも利害関係をともわないような自国人以外の多国籍な、政治だけ外注するように完全な無私の職業的政治プロ集団を作って任せると良いもしれない。そうなれば国の概念もなくなるし、不必要な競争や軍事などなくなるかもしれない。しかし警察のいらない社会が想像できないように、人間が人間である以上、そんな未来は来ない気もする。