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ふたつの私とブルーインパルス

お昼時にバイクで移動していたら、何やら多くの人々が空を見上げていた。虹でも出ているのだろうか?と探してみたが見つからず、そのまま走っていたら上空に戦闘機5機がきれいに飛行機雲を描いて飛んで行った。

一瞬のことでよく観察できなかったが、私は飛行機や車やバイク、機械全般、動くものや飛んでいるものには全て興味がある(大好き)なので、すぐに「ああ、あれは有名なブルーインパルスだ!!東京オリンピックの予行練習だろうか・・」と、もっとよく観察すればよかったと後悔をした。空を見上げていた人々は、飛行する情報を事前に知っていたのだろう。

帰宅してから調べて知ったのは、新型コロナウイルス感染症の大変な状況に置かれている医療関係従事者に向けて「敬意と感謝の気持ちを表す」の国家的広報活動であったらしい。一緒に出てきたのは行為の責任者?である河野大臣の顔。なにやら政治的な意味が付けられていて、私は一気に気持ちが冷めた。単純に飛行機が大好きな気持ちを政治に汚された気分になった。

Twitterで「泣いた、感動した、ありがとう!」だとか沢山のコメントが流れていて、「気持ち悪っ!」っと生理的に感じた。他人の涙にケチをつけたくはないし、何に泣こうが個人の自由だろうし、意味不明なタイミングで泣いてばかりの私が言うのも変だが、東日本大震災の時に「絆」だとか「頑張ろうFUKUSHIMA」だとかやたらと持ち出して一体感を感じたり、正義(非常時に暴走する正義という曖昧な概念。例えば戦時下では敵を殺すことが正義)を振りかざしていた人たちや世間の風潮、表面的な綺麗事や精神論を持ち出すことで問題の本質からは遠ざけてしまう現象を思い出して心底嫌な気分になった。そもそも本当に泣いたらTwitterなんかで呟けるものなのだろうか。涙ってそんなものなのか。絶対嘘だろう。カメラの前でウソ泣きできる子役なのか、そんなに器用になってどうする。

国家が諜報活動にメディアなどを有効活用し始めてから、政治的プロパガンダの仕方は実に巧妙になった。あの手この手で世論を操ろうとする。いつでも民衆は簡単に騙されてしまう。戦闘機をパっと飛ばせばニュースを数分間割くことができる、与党が苦境に立たされているタイミングの時ほど誰か有名人が逮捕されるのは何故なのか。(逮捕待ちの人がわんさかたくさんいて、いつでもニュースを作れるらしい。)今回の件で、権力者は国威掲揚の手段の一つとして味をしめたことだろう。

上空を音速を超えるような猛スピードで飛ぶ事ができる飛行機は人類の英智結晶で単純にカッコいいし、ライオンは怖いけど生物としてカッコ良い気がするのと同じで、そのカッコよさに政治的な意味なんて無いはずだ。もっと動物本能から生じるような衝動的な感覚(古代宗教での太陽神のようなもの、生命活動の根源である「パワー」への敬意)だろう。しかし、そこに政治性や意味や物語を後付けして、勝手に自己陶酔して泣いたりしてる人たちも多い。「国家」とか「世間」とかの大きな概念と一体化したかのような気持にでもなっているのだろうか。それを「共感」と呼ぶのだろうか。

太平洋戦争で、アメリカのB29爆撃機を「キラキラ光っていてとてもきれいだった」という証言をしている人はとても多い。塗装されていなくアルミ剥き出しの機体は太陽の光が反射して光っていたらしい。爆弾を落とされて殺されるかもしれないし、政治的な意味でも怖い想いを抱いた人も多くいただろうけど、しかし「きれいなものはきれい」と本能から直感で感じることは、全ての意味を超えて生じるのだろう。自然現象や物理現象に対して心が感動するのと、物語文脈(政治とか自己陶酔)に感動するのとは本質的に種類が違う気がするのだが、それが大人になると余計な概念や思い込みや信念が絡み合ってしまい、ますます区別が分からなくなってくる。私もそうだ。ブルーインパルスに対して、憧れと気持ち悪さ、双方を感じるふたつの私がいる。

ブルーインパルスの存在そのものに良いも悪いもない。科学の粋と物語を秘めた存在として確固としてこの世に存在している。戦闘機だから、自衛隊だから、予算がどうだとか、政治利用とか、意味を付けて嫌うことも、それも気持ちが悪い。飛行機に対して失礼な気がする。

右も左も気持ち悪い。理屈も思想も気持ち悪い。飛行機はかっこいい。





飛行機、「戦闘機」の持つかっこよさとは何だろうか。

私見で何の根拠もあるわけではないが、そもそもかっこ良いことに理由や根拠を求めたり語るほどに野暮だ。それでも少し考えてみる。科学技術の集大成である驚くべき機能性、内に秘めた暴力性、存在にある背徳性、これら全てが「美」に変わり、美というものをより強固にする。その徹底的な容姿から無言で訴えてくるものがある。翼の形、角度、素材、質感、全てに意味がある。
日本刀などもそうだろう。単に造形的な美しさだけではなく、内に秘めた存在意味と暴力性が潜んでるからこその美が宿る。

思想(信仰)は破綻と矛盾が孕んでいるからこそ甘美なものになる。生々しさによる苦悩を突き抜けるには信じるしかない。自ら進んで盲目になり精神世界と同化する。

右派が右派たり得る要素は、この「美」の力、求心力によるものが大きい。彼らの側にあるものは陶酔感を誘っている。桜は散るから美しい、軍隊には死があり、国家には滅亡と暴力性がある。彼らは死に憧れている。死こそ究極の美だから。

彼らにしてみれば、左派の生に執着して争いを好まないような態度は、彼らの美的な欲求で相いれない。彼らの求めているものは本能的な欲求渇望と精神的な美との結実感である。だから思想で訴えても意味をなさない。美には美でしか対話が出来ない。我々はいつだって美が足りないし、美を求めている。


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