一度目のピーク
20年間のピークは実は結構早くて、一度目の盛り上がりは21歳の頃。バンドDUTY FREE SHOPP.を結成して三年目、2001年のことだ。
当時沖縄インディーズブーム真っ盛りで、モンパチ、インハイ、地獄車に続けとばかりに誰もが雑誌handsの表紙を狙っていたあの頃。
大学生だった僕は同級生が皆スーツを着て就職活動をする中で、これが俺の就職活動だと言わんばかりに自主制作のCDアルバム「カーミヌクー」を作っていた。
沖縄民謡+ラップのバンドスタイルは当時珍しく、色んな大人が応援して下さったかいもあって、県内のバンドシーンである程度聞いてもらえる状況を作ることができた。
1999年から実質三年間のバンド活動の集大成として2001年の10月に「カーミヌクー」を発売し、その年の12月いっぱいで活動を休止した。つまり、アルバムが出てからわずか二ヶ月しか活動していないにもかかわらずあっという間に1500枚が売れた。
何故その状況で休止!?と思うかもしれないが、翌年の2月からは中国北京への語学留学が決まっていたのだ。当時レコード会社や音楽事務所からの誘いもいくつか頂いていたが、帰国を待っても良いという会社は一つもなかった。
カーミヌクーは僕が留学している一年の間、バンドは既に活動していないどころか沖縄にもいないにもかかわらず、更に1000枚も売れた。
つまり「旬」だったのだ。
あそこが一つ目の人生の分かれ道となった。
当時自分は若さもあり、自信と野心に満ちあふれていた。
まさか今の状況がピークだとは想いもよらず、ここからが始まりだ!沖縄に帰ったら凄いことになるぞ!と希望に満ちていた。認知も人気も右肩上がりになることを信じて疑わなかった。
留学中、曲もいっぱい書いたし、アルバム10枚分くらいの企画アイディアを携えて意気揚々と帰国した僕を待ち受けていたのは、時代の変化だった。
2003年、既に沖縄インディーズブームはモンパチの全国ヒットを受けて一気に大衆化&低年齢化。それまでのアンダーグラウンドなハードコア、メロコア、ミクスチャー路線から、ORANGE RANGEやHYなどのポップ性を持った五つくらい下の若い世代が台頭していた。
完全に浦島太郎状態になった僕は、そこから不在の期間を取り戻そうと奮闘する。
続く