二度目のピーク
2003年に留学から帰国後、完全に浦島太郎状態になった僕は、そこから不在の期間を取り戻そうと奮闘する。
しかしまずはバンドの活動再開が出来ないというハードルにぶち当たった。
音楽を仕事にすることを選ばなかったバンドマンは、大学卒業の年齢で一旦音楽を諦め就職していく。趣味で続けるか、仕事にするかの道がまずそこで振り分けられる。うちのメンバーも就職や県外に行ったりしてすぐに再開出来る状況じゃなかった。
まずは実家の家業を手伝いながら、新しいメンバーを捜してバンド再開だ!そう思い実家での新しい生活が始まった。当時母はヤンバルに土地を買って登り窯を作る計画を進めていて、僕も読谷とヤンバルを往復しながら働いた。ところが一年ぐらいその状況が続いた頃、志半ばで母が病に倒れることになる。
病気の内容つにいては詳しく触れないが、とにかく音楽活動どころではなくなった。なにせ母一人子一人の母子家庭だったので、とにかく自分が何とかしないといけない状況になった。
同じタイミングで学生時代から活動拠点にしていた読谷のライブハウスBORDERも潰れてしまい、弾き語りのイベントも継続出来なくなった。
そんな時、声をかけてくれたのが同じバンド仲間のカクマクシャカだった。現在はラッパーとして活躍している彼だが、元々はライブハウスでハードコアバンドとして対バンしていた同期だ。同じくバンドが無い状況になっていたカクマクシャカは打ち込みによる音楽スタイルに転換を図っていた。
共同名義による活動は僕から提案した。新しいバンドメンバーが見つかるまでの「つなぎ」として一緒に一枚色んなゲストを交えたコラボレーションアルバムを作ってみよう。その中から一緒に音楽活動を出来る仲間が見つかるかもしれない。
デモを作って売り込んだところ、運良く県内のレーベルに声をかけて頂き、リリースまでこぎ着けた。食えているというにはほど遠いが、事務所と契約し、活動費や宣伝費を出してもらって二年間ほど全力でアーティスト活動に専念した。
全国的には、その時に出た「民のドミノ」「South天加那志」「音アシャギ」などを通して僕たちのことを知ってくれた人が一番多いと思う。全国リリース、タワレコのbounceに載る、音楽番組のテーマ曲、CMタイアップ、ライブハウスツアー、フジロックやライジングサンなどの野外フェス、そんな夢みたいな状況がめまぐるしく駆け抜けていった。
続く