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202408

日記が継続できない性格なのではなく、日記が必要ないから毎日あったことを記せないのだと思う。日記に留めておきたいことなどそう多くはない。そういう人生であることが幸福であるのか不幸であるのかは人によるし、僕自身がどうなのか、僕にはよくわからない。

ただ、とても嫌なことがあった時だけは必ずそれを日記に記している。仕事がうまくいかなかったり、彼女にこっぴどく振られたり、道で初対面の外国人に殴られたり、酒場で太ったババアに無理やりキスされたり、僕の日記にはそういうことだけが怨念のように書き綴られている。

思い出したくもないことを思い出すために日記にしているのではない。また同じようなことがあった時に自分の心の動きにあの頃とどのぐらいの差異があって、あの頃はどう心を守っていたのか。あった出来事をどう心の中で消化していったのか。日記はその備忘録のような役割を果たしている。これは必要なことだと思う。きっと再び仕事がうまくいかなくなる日も、彼女にこっぴどく振られる日も、酒場でババアに無理やりキスされる日もあるのだから。

冬季鬱のせいだろけど、2年に1度ぐらい冬に色々なことが立ち行かなくなる時期が来て再起不能寸前まで追い込まれる。だから冬であること自体が嫌な記憶に繋がりやすい僕は冬に日記を書くことが多く、暖かい季節の日記が極端に少ない。あの時誰が助けてくれたとか、あの時誰が僕に何を言ったとか、そういうことが細かく書かれているけれど、冬の間に関係性が変わってしまったり僕がスマホを見るのが嫌になって連絡を返せなくなり、繋がり自体が断たれてしまうことも多い。だけどしてもらったことの多くは日記のおかげで忘れずに済んでいる。嫌なことからの心の守り方だけではなく、そういう備忘録の意味もある。

最近は暖かい季節だからこうして月記になっているけれど、また寒くて手足が悴む時期になったら毎日鬱々とした文章を書き連ねるのだと思う。寒いことが僕が文章を書くトリガーであり、耐え難い空腹と不幸がキーボードを叩くためのガソリンなのだ。虚しい、もっと前向きな原動力で文章を尖らせたいのに。

今年も寒い時期になるまで公募に出す小説のプロットを書いている。小説でもエッセイでも、僕は自分の作品をしっかりと世に出すまで死ねないのだ。死ねないと思いつつ、毎日目が回る忙しさでぼんやりと死にたいのだけど、もう少し頑張りたいことをいくつか頑張ろうと思う。

ここ1ヶ月で体重が4キロ落ちていて、50キロを切ってしまった。多分どこかが悪いのだ。週明けに病院に行く。あと40と数キロの体重が消え去ってしまう前に、目の前の仕事と、出来れば本を一冊出せるように頑張りたい。

すっかり何を書きたいのかわからなくなってしまった。まあ、自分の身の上話なんてまとまらなくて当たり前なのだからこれでいいのか。

皆さんには頑張りたいことがあるだろうか。立ち上がるチャンスを待っていたら明日車に轢かれて死ぬかもしれないし、来月心が折れて立ち直れなくなるかもしれない。やるべきことをやれない時には、昔見た綺麗な景色とか、隣にいる恋人や家族とか、いつか努力した記憶とか、あの日美味しかった酒とか、何か灯台になるものを探してみてほしい。そういうものがあること自体が、人生における救済なのだ。

甘いもの食べさせてもらってます!