特別を信じ追い求めた僕らへ
12歳頃から18歳の頃まで、私はただ無力で、それから無敵だった。
いや、もっと前、物心つく頃からだったような気もするし、今もそうなのかもしれない。
私は小学校に上がった頃から、学校には余り寄り付かない子供だった。
担任の先生が家まで車で迎えに来てくれたり、昼休みの時間に母が学校まで送ってくれたり。先生の、車高の低い紺の車をよく覚えている。
みんなが当たり前に通う学校という場所に、クラスメイトという集団に触れた時間が短かった所為で、自分は他のみんなとは違うという意識が芽生えるのは早かったと思うし、その意識は強烈だったと思う。
時代小説好きの父の影響か、本をよく読んでいた。
三つ上の姉の影響か、年齢には少し似つかわしくない本を背伸びして読んでいた。
他にも、色んなことが重なりに重なって、己は特別な存在で、みんなとは少し違っていて、普通ではないのだと、そう溺れていた。
でもやがて、歳を重ねるにつれて見えるものが増えてくる。
そうして気づくのだ、あれ、自分特別でもなんでもなくないか。
確かに私は大多数の人とは違いまともに学校に通っていなくて、でもそんな人は私以外にもいるのだ。もっと言えば結構いるのだ。
考え方が少しねじ曲がっていて、これに関しては、普通とかそういう基準なんてなく、私は私で他人は他人で。特別な思考なんて何も持ってない。
私が持っているのは態々使ってしまう小難しい言い回しと蓄えた物語と、それから持て余した時間で、それは割と持っている人が、他にもいる。
義務教育をおざなりに終えたぐらいから薄々気づきはじめていたそれを、はっきりと認められたのは確か19歳の誕生日がそろそろ近くなっていた頃で。遅くないか?
21歳とそろそろ3ヶ月の私は、でもあの頃の方が私は強かったなと思う。
大人ってもっと強いものだと思っていたのだ、ほんとうに。
そもそも私が大人になれているかどうかは別として、今の私は弱いなと思う。
怖いなと思うものが増えた。
失敗だったり、失うことだったり、変化だったり、停滞だったり。
夜中に発作のように起こる感情の嵐は、恐怖に濡れてパジャマの袖をぐっしょりさせる。
恐怖は足を竦ませて、やってみようという心意気を怯ませる。
自分が特別だと心から信じていたあの頃は、「でも私は特別だから大丈夫」と当たり前のように思っていた。
だから、なんでも出来た。
平気で人を傷つけられたし、新しいことにチャレンジできたし、簡単に人を好きになれて、嫌いになれた。
でも、今の私は知っている。
私は世間にありふれた人間だということを。
でもそのおかげで、ありふれたことを幸せだと感じられるようになった。
大人が口を揃えて言う、「普通が1番幸せ」、の意味を、最近じわじわと理解出来ている気がしている。
あの頃の私が今の私を見れば失望するだろう。
怒り、そんな私は私じゃないと怒鳴るだろう。
でも私は、あの頃の私が歯を食いしばって、夜1人で泣き暮れていることを知っているのだ。
眠れずに1人で迎える朝焼けの眩しさと絶望を知っているのだ。
今がいいなと思う。
育ってきた環境も何もかもが違うのに心から愛して自然に家族だと認められるひとに出逢えて、どんな時も寄り添ってくれる温もりを見つけて、たまに泣いたりしてたくさん笑ったりして、そんな普通の今がいいなと思える。
自分は特別じゃないと知ってやっぱり普通が1番だよと言う、このすべてが何もかもありふれた普通で、でもそれでいいなと思う。
怖いと思うのは守りたい今があるからで、私はもう、1人で明けない夜をじっと待ちたくはないから。
流れ流されたこの場所で、次の流れに身を委ねよう。
自己紹介代わりの一文を。