見出し画像

沈没遊覧船

 大きくとられた窓からは燦々と午後三時の陽射しが差し込んでいて、真っ白でつるつるした手触りのテーブルの上の物たちを照らしている。柄の違うアンティークのティーカップ、その紅茶に添えられた小さな焼き菓子、お守りみたいに置かれた私の文庫本は水色のブックカバー。美優の白魚みたいな手が沈黙を泳いでテーブルの端のペーパーナプキンを一枚抜き取った。

「じゃあどうだったって言うの?」

 鶴を折り始める淡いピンクのフレンチネイルが施された指先。かわいいの型に嵌った古臭い指先。私が愛したその様式美も、今この場では疎ましく思えた。
 言葉で切り裂いた美優の声は苛立っていた。私はひとつ呼吸を飲み込んで答える。

「今更過去のことを振り返ってひとつずつ添削しても意味ないよ。過去のことは変わらないし、その積み重ねで今があるんだから」

 あくまで冷静に、つとめて冷静に。
 そう言い聞かせているのは誰の為だろう。美優を感情的にしない為というよりは、私自身を護る為であるように思えた。ほんとうは今すぐ泣き喚いてしまいたいというのに。
 私が吐いた言葉は理性的で、でも内側ではどうどうと感情の奔流を抑えられないでいた。
 美優の整った眉がひゅっと吊り上がった。

「あたし、司のそういうところが嫌だったの」
「そういうところって?」

 明らかに聞かない方が賢明だ。それでも私は、私の様式美に沿ってきちんと聞き返す。それが私の愛するものだから。

「いつも落ち着いてて、冷静ぶってるところ。あたし一人でいきりたって、馬鹿みたい」

 ぽつん、と、突然美優の手の甲に雫が落ちた。目を上げるとそれは美優のうつくしい瞳から流れ落ちた涙で、次々と落ちてきては美優の白いスカートを濡らした。
 私は、ふんだんな太陽の光の中であまりに絵画的な涙を流す美優を呆然と見ていた。いかにもインスタ映えしそうなこのカフェは彼女のお気に入りで、付き合っていた頃何度も二人で訪れた。澄まし顔でティーカップを持つ美優の写真を何枚撮らされたことだろう。
 幸福だった頃。嫌なことも辛いことも二人で紅茶に溶かし込んで飲み干して、すきなひとと空を分け合うことを確かな幸福だと思えた頃。
 でもその幸福は今、美優のインスタグラムの中に切り取られ、閉じ込められている。現実に呼び起こして再生する事はできないのだ。

「もうやだ……」

 言葉を発することもハンカチを差し出すことも忘れた私をよそに、美優はどんどん涙を流す。私は、美優のそういうところを愛しく思っていた。一人で感情的になって、一人で舞い上がっては一人で傷ついていく。きっと彼女は、私と別れてからもそうして一人で生きていけるのだろう。

 二人揃ってカフェを出て、それじゃあとそれぞれ反対の道に出た。家に帰るなら駅まで同じ道だけど、寄り道をするからと強引に美優を先に返した。
 太陽はもうくたびれてオレンジ色だ。十月半ばの夕方はそこそこに寒くて、薄手のダウンベストの裾を引き下げる。ロングスカートを履いてきてよかった。
 くたびれた太陽が照らすのはくたびれた町だ。下町、とでも言うのだろうか。地方から出てきた自分には分からないけれど。ぼんやりと散策しているとここはあまり東京らしくなくて、どちらかというと地元に近い匂いがした。漂ってくるお風呂の匂い、金木犀が時折強く香って、カレーの匂いがそれをかき消す。
 住宅に紛れて、ぽつんと寂れた八百屋を見つけた。とつとつと寂しげに身を寄せ合う果物たち。
 衝動、というほど強くもない感覚に背中を押されて林檎をひとつ買った。店の奥に座るおばあさんは眠っているように見えたが、すみませんと声をかけると機敏に対応してくれた。袋は有料だけど、あ、結構です。短いやりとり。
 林檎はしっかりと質量を持って、つやつやと赤い。軽く上に投げると、ぽーんと間の抜けたふうに宙を舞う。ポケットに仕舞い込んだり、また手に持ったりしながら歩く。
 八百屋から暫く北に歩くと歩道橋を見つけた。誘われるまま鉄製の手すりに指を跳ねさせながら階段を登る。硬質な足裏の感覚。橋まで登りきって、下の道路を見下ろす。走る車に煽られて風が強く、ロングスカートがひらひら揺れた。
 端の手すりにもたれかかって、林檎を一口かじる。二口、三口とかじる内に、だんだん実感が湧いてきた。
 ああ、別れちゃったんだなあ。すきだったな。
 自衛の為の冷静さは、私を時間の中に置いてけぼりにする。だんだんしょっぱくなる林檎は、変色止めの為に塩水に浸したお弁当の林檎の味がした。

いいなと思ったら応援しよう!

あおい あかり
最後までお目通しありがとうございます。頂いたサポートは愛猫の生活水準の向上に使われます。