呼び声、未来の私と
今こうして心臓が動き、肺が酸素を取り込もうと動いているこの瞬間、時間は刻一刻と前へ進んでいく。
いや、前へは進んでいないのかもしれない。
何かの作品で、「その場に留まる為には前へ進み続けなければいけない」といっていた。
それはそうだ、己がいくらじっとしていても、周りは容赦なくそれぞれの時間を進めていくのだから。
それに、人間には老いがある。芽吹き苗が伸び蕾をつけ花が咲き、実がなってやがて枯れてゆく。例えうつくしい花が咲かなくとも、育ち朽ちる。
私は今まで生きてきて、前へ進んでいると感じられたことはない。
ふと足元を見て、あれ、なんだかこの前と違うところにいるなぁと首を傾げるばかりで。
けれど確かに、あの頃の私がなぜか今の私の後ろにいる。
まだちいさな子供だった頃、母に、こっちだよと手を引かれていた。
私はそれに大人しく従ったり駄々をこねて従わなかったり、それでも母の示すように歩いていた。
でもふと、それはいつの間にかなくなっていた。
母は変わらずあの日差しがふんだんに降り注ぐ家にいる。
でも私の手を引いてくれてはいないし、こっちだよと呼んでくれてもいない気がする。
母はずっと前のほうから、あるいはほんの少し前から、いつも私を呼び、手を引き道を教えてくれた。
それにすんなり従ったりことの方が少なかったけれど、でも確かに何かしらの導きはあったのだ。
母の手がなくなって、でも私の手をとってくれた人がいた。
その人は、隣にいたりもするし、半歩前を歩いていたりもするし、振り返らないと顔を見られない後ろにいたりする。
でも、絶対に手を離さないのだ。
体温の低い、でも子供体温の私の手の中で温められた骨張った傷だらけの手がこの掌に、指先に触れている。
少し私が疲れたら、手を繋いだまま歌を歌って待っていてくれる。
私が走り出したら、その人も走り出して私を追い抜いていく。
その人はそのどちらの時も、いつも楽しそうで。
いつの間にこんな遠くへ来たのだろうと思う。
遠くへ行くのは淋しくて、でもわくわくして心躍る自分が確かにいて。
それも、私の魂を簡単に揺さぶるような人が隣で手を繋いでいてくれるなら、旅はただ単純な冒険になる。
ぼうっと立っていても進んでしまうのなら、いっそ走り出してしまおうと思う。
遠くへ来れたことを喜べるように、光が闇かわからないその行先から私を呼ぶのは、未来の私だ。