第69話「リン、ヒゲを外す」
リンはロレアに呼び出されて彼女の事務所に向かっていた。
「リンへ
改めて二人きりで話したいことがあるの。
事務所まで来てください。
美味しいお茶とお菓子を用意して待っています。
ロレア」
(なんだろう。こんな風に呼び出すなんて)
手紙の曖昧で遠回しな表現からリンは変な期待を抱いてしまう。
(なにはともあれ紳士なら女性からのお誘いを断っちゃダメだよね)
今日も彼は自分に最も似合うと信じて疑わない燕尾服にシルクハット、そしてちょび髭をつけてアルフルドの繁華街に出かけた。
リンが事務所の前まで来るとロレアが入り口で待っていた。
彼女はいつになく明るい笑顔を振りまいてくる。
「リン、待ってたわ。さ、ここまで歩いて来て疲れたでしょう。早く中に入って」
リンも思わず顔をほころばせた。
「はい」
しかしいざ事務所の応接間に入ってソファに座ると、待っていたのはお茶とお菓子ではなく、彼女の部下である強面のおっさん達による包囲である。
(あ、あれ? 二人きりなはずじゃ……)
リンが戸惑いながら彼女の方を見ると、彼女の顔からは先ほどの朗らかな様子はすっかり消え失せ、血相変えた様子になっていた。
「ねぇリン。どういうことなのこれ」
ロレアが数枚の書類を見せてきた。
大手取引先からの取引停止届けの数々。
そして学院からの通知だった。
「ロレア殿へ
貴殿は何年にも渡り留年を繰り返している。
学業への熱意が衰えていることは疑いない。
また風紀を乱す様々な活動についても見過ごし難い。
よってここに当学院は貴殿を退学処分に処する。
学院長」
リンは頭の中が真っ白になった。
「どういうことなのよ、リン。あんたなんか知ってるんでしょ? なんとか言いなさいよ」
「いや、そんなこと言われても。僕には大手商会や学院長の意向なんて分からないですし……」
「大手商会の奴らはみんな今後テオを通して取引するらしいわ。学院長に異議申し立てをしながら探りを入れたらどうもイリーウィアが一枚噛んでるみたいなの。イリーウィアっていうとあなたのことを可愛がってる王族よね。知らないとは言わせないわよ。あんたイリーウィアとのコネを散々自慢にしていたんだから」
(あ、あれ? イリーウィアさんが動くのは来週のはずじゃ。それにテオは和解を進めていいって。というか、えっ? 学院長? イリーウィアさんには大手商会に圧力をかけることしか頼んでいないはずなのに。まさか学院長にまで手紙を送ったのか)
「これじゃあ私、アルフルドの支配者どころか街に立ち入れなくなっちゃうじゃない。あんたまさか私にレンリルの工場で働けって言うの?」
「……」
「ねぇ。どういうことリン。あなたは私の味方じゃなかったの? まさか私を嵌めたの? ねぇ、リン」
「えーっと、テオの方からロレアさんに何か言ったりとかしていませんでしたか?」
「テオと連絡を取り合うのはあなたの仕事でしょう?」
「あ、そうか。そうですよね」
(これは……、もしかして僕は大変な思い違いをしていたんじゃ……)
ここにきてようやくリンは自分が大きな勘違いをしていたことに気がついた。
リンは頭の中で急いで状況を整理しようと試みる。
(ふむ。つまりこういうことじゃないだろうか。テオはそもそもロレアさんと和解するつもりなんてなかった。僕に和解を進めていいと言っていたのは彼女を油断させるための時間稼ぎにすぎない。では今の僕の立場はどうなるんだろうか)
リンは自分がロレアからどのように見えるのか想像力を巡らせてみた。
テオから見ればロレアに対する包囲網を完成させるまでこちらに敵意がないと彼女に思い込ませ、時間稼ぎをするための駒。
一方でロレアから見れば和解するつもりもないのに、和解するという偽情報を流し、彼女の陣営を撹乱した人間ということになる。
つまり……
(つまり、僕はスパイということになりますね)
そしてどうやら任務は達成されたようだ。
(かくなる上は逃げるのみ。なんだけど……)
ロレアの誘いに乗って捕まってしまった。
(テオも人が悪いな。それならそうと最初から説明してくれればいいのに。これじゃ僕の立場がないじゃないか。イリーウィアさんもイリーウィアさんだよ。何もこんなエグい真似しなくても。これじゃあどんな言い訳も立たないじゃないか。見かけによらず残酷なことするなぁ)
「ねえリン。どういうことなの。話が違うじゃない。あなたは私の味方なのよね。テオとイリーウィアに翻意するよう取り計らってくれるのよね。あなたは私を見捨てたりは、まさか私を裏切ったりはしないわよね。どうなのよ。ねぇ、リン!」
「ふーむ」
リンは両手の指を絡ませて弄び、それを見つめ、考え込んでいるような仕草をした。
ロレア達は固唾を飲んでその様子を見守る。
室内にしばらくの間、気まずい沈黙が流れた。静まり返った部屋の中に置き時計のコチコチという音だけが鳴り響く。
「あっ、そうだ」
突然、リンが何か思いついたように立ち上がって声を発した。
ロレア達は身構える。
「僕は今日これからお茶会があるんだった。いやぁいけない、いけない。危うく忘れるところだった」
リンは付け髭をぺりぺりと剥がすとテーブルの上に置いた。
「そういうわけなんで。すみませんが僕はこの辺でそろそろお暇しますね」
「はっ? ちょっ、待てよ」
ロレアは立ち去ろうとするリンの腕を掴んで押しとどめようとする。
「放してください!」
リンが冷たく言い放って振り返る。
ロレアはリンの責めるような瞳を見てハッとした。
いたいけな少年を傷つけてしまったような、何かやってはいけないことをしてしまったような気分になってついついひるんでしまう。
「僕はロレアさんと和解したいと心から思っていました。でも前にも言った通りテオと離れることはできないんです。察してください。では」
リンはロレアの手の力が一瞬緩んだ隙に振り払ってそそくさと立ち去ってしまった。
室内は再び気まずい沈黙に包まれる。
リンの足音が聞こえなくなった頃、ついにロレアは怒りを爆発させた。
「ふっ、ふふ」
彼女は自嘲気味な笑いを漏らしたかと思うと、テーブルに杖を振り下ろす。
彼女の杖は先ほどリンが置いていった付けヒゲに向かって叩きつけられた。
テーブルはけたたましい音を立てて真っ二つに割れた。
ヒゲは木っ端微塵に吹き飛び、跡形もなく消えた。
「何なんだよあいつはぁぁー。テオはただの性格悪いヤツだけど。リンは、あいつはただのクズじゃねーかぁぁぁー」
彼女は地下室に降りていき部下達の制止を振り切ってケルベロスを解き放つ呪文を唱え始めた。
「テオはもういい。リンをブッ殺せ。あの二枚舌野郎をブッ殺すのよ」
檻から放たれたケルベロスは勢いよく階段を駆け上がり事務所の扉を吹き飛ばして外に飛び出していく。
「可哀想な奴だと思って同情してやったのに裏切りやがって。あいつは私の気持ちを無下にしたんだ。絶対に許さないわ」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?