第92話「アディンナの危機」
リンが会社に出勤するとザイーニがいた。
「ザイーニ。おはよう」
「おはよう。今日は僕と君で留守番のようだね」
それを聞いてリンは一気にリラックスした。
リンにとってザイーニは一緒にいて一番心が休まる相手だった。
魔導師の学院に通うものはどういうわけか誰も彼も癖の強いところがあった。
しかし彼はいたって自然体だった。
そのためリンは彼と話すとホッとした。
その時だけ本来の自分に戻れるような気がするのだ。
また貴族なのに気取ったところもなかった。
彼は白銀の留め金ではなく制服通り金の留め金を付けていた。
リンはどうして白銀の留め金を付けないのか聞いてみた。
すると彼は笑ってこういうのであった。
「面倒くさいから」
リンも思わず笑ってしまった。
「後は僕が貧乏貴族だっていうのもあるかもね」
彼はアディンナという国の出身だった。
リンは彼の背景をもっと知りたかった。
「アディンナってどんな国なの?」
「滅びゆく運命の国だ」
彼は静かにそう言った。
「この塔で偉大な魔導師になることができれば祖国を救えるかもしれない。そう思ったが、なかなか難しいことのようだ」
リンが狐につままれたようにキョトンとしていると、ザイーニがにっこり微笑んでくる。
「さ、残っている仕事を片付けてしまおう。またテオとシーラが喧嘩しないように」
アディンナの危機は唐突にやってきた。
実際には前触れがいくつもあり、当事者にとっては来るべき時が来たに過ぎないのだが、国際情勢に疎いリンにとっては唐突なことだった。
以前からずっとアディンナとスピルナの間にくすぶっていた領土、国境、資源にわたる根深い対立がついに抑えきれなくなり、戦争へと発展したのだ。
塔の外の出来事は塔の内側にも雰囲気という形で波及した。
ザイーニに対してスピルナの国の貴族達、そしてその貴族と仲のいい子達は露骨にヨソヨソしくなる。
今まで彼と仲の良かった生徒達も彼に距離を置くようになった。
こういうことはこの塔の中ではよくあることだった。
彼ら貴族は個人的感情よりも家の都合を優先しなければいけないのだ。
リンはザイーニに何と声をかけて良いのかわからなかった。
「聞いたよザイーニ。アディンナとスピルナの間で戦争が起こるって。その……何といったら良いか」
彼はそんなリンに対して優しく微笑んでくれた。
「気にしなくていい。元々いつこうなってもおかしくなかったんだ。君にも僕にもどうしようもないことだよ。どうか君はいつも通り接しておくれ」
リンは胸がいっぱいになった。
彼は自分のことでいっぱいいっぱいなはずなのに、リンに対する気遣いを決して忘れることはない。
「ザイーニはこれからどうするの?」
「分からない。父上や兄上はこの塔に留まって魔導師の修行を続けるように言ってくれているけれど、戦争となれば金がいる。祖国の危機なんだ。余計なお金を回している余裕なんて無いだろう。いよいよ急迫してくるとなればここを離れることになるかもしれない」
「ザイーニ。僕に何かできることがあったら何でも言ってくれ。大したことはできないかもしれないけれど何だって協力するよ」
「ありがとう。けれども気遣いは無用だ。君はいつも通り話しかけてくれ。僕は君と話していると心が落ち着くんだ」
リンはいつも通り彼と話すように努めた。
なるべくとりとめの無い話題を選びザイーニが心の平穏を保てるように。
一方でザイーニの祖国アディンナの戦況は日に日に悪くなっていくという報せが届いてきた。
リンの周囲でもザイーニの去就やアディンナの行方についてまことしやかに有る事無い事噂された。
リンはこういった周囲の無遠慮さが腹立たしかった。
「塔はアディンナとスピルナの戦争に関して中立を保つことを決めたようだな」
ザイーニが側にいない時、テオが新聞に目を落としながら言った。
リンはそれを聞いて目を丸くする。
「中立って……、じゃあ逆に塔が二つの国の戦争に介入するなんてことがあるの?」
「あるよ。ここは世界で最も魔導師が集まる場所だ。塔が総力を挙げればアディンナの国体を保つくらいわけない」
「じゃあなんでそうしないのさ」
「塔の上層部にアディンナの人間がいないからさ。いや正確には居なくなったというのが正しいかな。以前までは評議会に一人アディンナ出身の魔導師がいたんだけれど、最近、彼は評議会議員の資格を失ったんだ」
「……」
「塔は各国のパワーバランスを維持し、崩しかねない存在なんだ。これが貴族達が多少危険を冒してでも才能ある子弟を塔に送り込む理由だよ。子供が塔で出世すればその家は当然本国でも重用され、発言力が増す」
「……」
「今はもうアディンナの魔導師は上層部にいない。だから侵略しても誰も文句を言わない。今回のスピルナの動きはそれを見越してのものなんだ」
「じゃあアディンナは……」
「国力の差は歴然だ。一方的にボコられるぞ」
数日後、ザイーニが塔を離れるという知らせがリンの元に届く。
リンはザイーニの元に駆けつけた。
すでにザイーニは旅装で出発の準備を整えているところだった。
荷物に詰め込めるだけの魔道具を詰め込んで。
「ザイーニ。アディンナに帰るのかい?」
「ああ、急な事になってすまない」
「どうして? やっぱり仕送りが難しくなったのかい? それともこの塔に居づらくなって?」
「どちらでも無いよ。父上は僕が一廉の魔導師になるまでの十分な資金を送ってくれたし、僕は周囲で何と言われようと気にしたりはしない」
「じゃあ一体どうして?」
「貴族としての誇りだ。僕はアディンナの由緒ある貴族の子弟としてこれ以上祖国の危機を黙って見ていることなんてできない」
ザイーニは毅然とした態度で言い放った。
「アディンナにいる家族が、友達が、仲間達が、国のために戦って苦しんでいるんだ。国民は戦火にさらされている。それなのに自分だけ安全な場所からただ戦況の推移を聞いているだけなんて。これ以上耐えられない」
「ザイーニ……」
「自分がまだ未熟な魔導師だということは分かっている。大して役に立たないということも。けれども祖国のためにできるだけのことはしたいんだ」
リンは急にザイーニが遠いところにいる人間のように感じられた。
祖国というものがないリンにとって国のために戦うというのはピンと来ない感覚だった。
リンは今までザイーニに対して親近感を持っていたが、自分が見てきたのは彼という人間のほんの一部だったのかもしれない。
少なくとも今のリンには、彼のためにしてあげられることもかけられる言葉も無かった。
「君には色々と世話になったな」
「そんな……僕なんて何もできなくて」
「そんなことないよ。最後まで気を遣って友達でいてくれた」
「……」
「戦争が終わったらまた会おう。それまで君は達者でいてくれ」
数ヶ月後、アディンナの首都が陥落したというニュースがリンの元に届いた。
アディンナは滅亡したのだ。
ザイーニの消息は不明だ。
だからリンは想像した。
ザイーニが滅びゆく国家の戦場でどのように働いたか。
ザイーニは自分は大した役には立たないと言っていた。
しかしそれは謙遜というものだろう。
質量と自然現象を自在に操れる魔導師は、戦場のいたるところで役に立ったはずだ。
身分の分け隔て無く接し、親切で優秀、愛国心溢れる彼のことだ。
きっと戦場のいたるところで役に立ち重宝されただろう。
しかし敵からすればただの厄介な存在だ。
おそらく真っ先に狙われたんじゃないだろうか。
それでも誠実で勇敢な彼は任務を放棄したりしない。
構わず戦場を駆け巡って孤軍奮闘しただろう。
しかしそんなことがいつまでも保つはずがない。
やがては敵の放った攻撃が彼に命中する。
たぶん彼は死んだのだ。
彼は死ぬとき苦しかっただろうか、それとも苦しみを感じる間も無くあの世に行ってしまったのだろうか。
すぐに死ななかったとしたら彼は死に際に何を思ったのだろうか。
きっと家族や親族、友人達、国民、滅びゆく国家の行く末。そんなところだろう。
果たしてその中に自分のことは入っていただろうか。
「ねえ、テオ」
「ん?」
「ザイーニは死んだのかな」
「わかんないよ。そんなこと」
「テオはどう思う?」
テオは少し黙り考えてから、慎重に言葉を選び、答えた。
「……ザイーニは決して弱くないし、むしろ頼りになる奴だ。けれど、今回は相手が悪過ぎる。なにせ相手は軍事大国スピルナだ。弱小国相手とはいえ手加減するとは思えない。それに……」
「それに?」
「あいつはいい奴だったからな」
それだけ言うとテオは先ほどまで見ていた新聞の方に目を落とした。
数日後、塔内の新聞にスピルナの捕虜となったアディンナ貴族のリストが掲載された。
彼らは身代金さえ支払われれば解放され、亡命することができる。
リンは名前のリストを隅から隅まで見てみたが、その中にザイーニの名前は無かった。
やがてリンも日々の忙しさに追われてザイーニのことを忘れていった。
元来リンはそういう風に出来ていた。
しかしザイーニの記憶を騒々しく呼び戻すものが一つだけあった。
スピルナ上級貴族ラディアットの演説だった。
彼らは学院近くの広場を度々占拠しては演説を行っていた。
登校する際、横を通り過ぎるリンの耳には聞こうとしなくても聞こえてきた。
「塔内にアディンナへの同情論が広がる向きがある。スピルナの処置は過酷すぎたのではないか、アディンナにも同情の余地があったのではないかと。私はそうは思わない。アディンナは滅ぶべくして滅んだのだ。アディンナ人の愚劣さは目に余るものがある。そう。彼らには自国を統治する能力がなかったのだ。国を滅亡に導く支配者、そしてそれに甘やかされていた国民共。同情の余地はない。スピルナはアディンナに正義の鉄槌を下したのだ。今後、アディンナは我々スピルナ人によって正しく治められ、導かれるだろう」
彼らは自分達の主張する正当性にみんなが同意しなければ気が済まないようだった。
「そうだ」
「ラディアの言う通り」
「スピルナ万歳」
ラディアの演説に広場に集まったスピルナ人の学院魔導師達が一斉に同意して拍手し、気勢をあげる。
「行こうぜ」
テオが足早に通り過ぎるようリンを促した。
リンは促されるままに学院への道を急いだ。
リンが部屋に戻ると小包が一つ届いていた。
疲れていたため、億劫そうに小包の差出人を見る。
(誰だよこんな時に……)
差出人の欄には『ザイーニ・シトラ』とある。
リンは差出人を見るや否や急いで封を切り食い入るように中に入っていた手紙を読んだ。
「リンへ
この手紙が届く頃には僕はもう死んでいるかもしれない。
アディンナはもうすぐ滅亡する。
今、首都が包囲されているところだ。
長くは保たないだろう。
そういうわけで外界との連絡が途絶えているのだけれど、幸いにもスピルナ陣営の傭兵に知り合いが居た。
おかげでこの手紙と贈り物を君に届けることができる。
小包に入っているのは我がシトラ家の家宝だ。
もう僕が持っていても仕方が無いものだし、スピルナ人の手に渡るのも癪だから君の元に届けようと思う」
リンは一旦手紙を読むのを中断して小包の中を調べた。
中には青色の魔石のようなものが入っていた。
手紙の続きを読む。
「小包の中にある魔石、それは大量の水を溜め込むことができる『リトレの魔石』だ。
貴族の家宝にしてはつまらないものだと思うだろう。
まあこれがアディンナの実態だ。
それでも君の塔攻略に少しは役立つはずだ。
受け取ってもらえると嬉しい。
君が偉大な魔導師になれるよう祈っているよ。
お元気で。
ザイーニ・シトラ」
リンは手紙を読み終わった後、魔石を握りしめて、ベッドに横たわった。
「ザイーニ……どうしてっ……」
眠りにつくまで、彼の頭の中ではザイーニが帰国した時の姿とラディアットの演説が交互に思い浮かんでは消えた。
やがて忌々しい睡魔が全ての感情を押し流して、リンを深い眠りの底へと追い落としていく。
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