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人生はドラマだ~曾祖父の葬式写真を見ながら想いを馳せたこと~
この1つ前の投稿で、祖父から父にあてた53年前の手紙の話を書いたけど、その投稿に写真をつけようと思って探していたら、こんな写真を見つけた。
これは、私が生まれた1966年(昭和41年)、私が8月3日に生まれて、その5日後に私のひいおじいちゃんの武助さんが亡くなり、その葬式のときの写真だ。
92歳で亡くなった、数奇な人生を生きた人だった。
1874年(明治7年)に生まれ、16歳のときにアメリカに移民した。アメリカ西部の開拓農民として身を粉にして働き、写真を交換しただけの見合いで故郷から見ず知らずの女性を奥さんとして呼び寄せ、最初の子ども2人を病気で亡くした。
私の祖父はそんなわけで、アメリカで生まれた。
祖父のことをずっと長男だと思っていたが、実はその前に生まれた子どももいたが亡くなり、また、祖父の弟も亡くなったことを、のちのち、仏壇の中の過去帳にあった、子どもが火葬される準備で腕に着けていただろう小さなカードで知った。
2歳で亡くなった子ども。故郷を一度も見ずに亡くなった我が子。
長く外地で苦労した曾祖父は、どれほどその遺骨を故郷に帰してあげたいと願ったことだろう。
だから、私の祖父が小学校低学年のときに、一家は遺骨を持ってアメリカから故郷の山口県熊毛郡田布施を訪れた。当時のことだから、船に乗ってきたのだろう。
亡き息子の慰霊をして、遺骨を墓に収め、さぁそろそろアメリカに帰ろうと考えながら浜を歩いて家に帰ったときに、目の前で実家が大火事で燃えていた。
財産すべて全焼して、アメリカに帰れなくなったのでそこにとどまったのだという話を、私はよく祖母から聞いていた。
だけど私が大人になってから、その年代と、歴史の史実とを照らし合わせたときに、浮かび上がってきたのは、第一次世界大戦、スペイン風邪の流行、関東大震災、世界恐慌、という一連の出来事だった。
そのさなかにアメリカから日本へ遺骨を運んだ。曾祖父が日本を出発してから30年もの年月が過ぎていた頃だった。
その状況や心情を想像する。私自身もケニアに37年住んで来た中で様々な危機的状況には何度も遭遇した。だけど本当に幸いだったのは、自分が産んだ2人の子ども、そしてさらに3人の孫が、無事に健やかに育ってくれたことだ。自分自身もマラリアや肝炎やいろんな病気にはなったけど、事故もなく健康に生きることができた。
いま小さな孫の世話をしながらつくづく思う。子どもを亡くした時、どれほど悲しかったことだろう。古い戸籍を見ると、曽祖父母はアメリカでも転々として、7人産んだすべての子供が違う地名の場所で出生届けがされていた。
何があってそんなに転々としたのだろう。
その計り知れない苦労はもう誰も語ってくれる人がいないけど、残された古い写真や、戸籍の記載が、想像をかき立てる。
アメリカに帰れなくなったから、祖父は山口県にとどまり、瓦職人になり、瓦や、七輪などを焼いて生計を立てるようになったらしい。瀬戸内海が目の前だったから、海から食べれるものを得てもいたらしい。
間もなく世界はまた戦争へと向かっていき、日本とアメリカが戦うことになった。アメリカには親戚がたくさん移民していたから、そんな移民日本人は強制収用キャンプに収容された。
私の祖父は朝鮮で大学に行き、そこで起業し、さらに国境を越えて満州に渡った。ソ連と朝鮮と中国の国境近くで父が生まれた。
日本が戦争に負けたとき、難民になり、2年くらいかけて逃避行と難民生活を続けて、なんとか日本に帰ってきた時に帰る家があったのは、この曽祖父のおかげだ。
もしもあのままアメリカに住み続けていたら、日本に帰る家はなかっただろう。
私が生まれた時にはまだ生きていた武助じいさん。私はこの世で5日間だけ同時に存在した。
私はこのひいじいちゃんの生まれ変わりだ、と、よく言われた。
大人になってから彼の人生を思うとき、様々な共感と興味がそこに湧いてくる。
私の父は、満州から引き揚げてきたときは小学3年生。このおじいさんにずいぶんと可愛がってもらったらしい。寡黙なおじいさんだったが、道具を作ったり小舟を浮かべて魚をとったり、なんでも出来たのだそうだ。父はのちにエンジニアになり、オートバイの設計などの仕事をするようになったが、そのモノづくりが好きな性質はこの武助じいさんから教えられたのだと言う。
武助じいさんの葬式の古い写真を見て、その人生に想いをはせる。
人一人が生きるということは、ドラマだ。